29.07.2005

最近の日本語論争について

nihongo


 私が雑文集「ろまねすくのコーヒータイム」に折に触れて書き留めてきた「雑感」に、もう二十年間は続いてきた『日本語論争』に関連して、「変だぞNHKの放送用語」という一文を草したことがあった。
 そのきっかけは、低年齢化した売春についての放送で、「売買春」のことを伝えるのに、売春を「バイシュン」といい「買春」を「カイシュン」と言ったことであった。「売買春」は昔から「バイバイシュン」であり、売春も買春も音に出せば「バイシュン」だと思っていた。買春を「カイシュン」とNHKのアナウンサーが発音したのを聞いて、私は飛び上がってびっくりした。それまで、NHKの放送用語は美しい日本語の基準だと信じていたのに、ひどく裏切られた気分だった。

 続いて、菅原道真公が大宰府に配流されたときに読まれた有名な歌。
「東風吹かば 思い起こせよ梅の花 主なしとて春な忘れそ」…を、NHKのアナは、
「東風吹かば 思い起こせよ梅の花 主なしとて春を忘るな」…と紹介、ウヌヌヌ、勝手に人の著作を改変している。何の権利があってNHKは勝手気ままな振る舞いをするのか、と気分を壊し爾来NHKは信用しないことにした。

 これには当用漢字を作り美しい日本語を壊してきた国語審議会に対する反感もあったと思う。漢字の制限ばかりか、美しくない言い換えなどもカンに触っていた。加えて一部の若者から発した「ら抜き言葉」の蔓延も日本語の美しさを壊す行為だとの思いも有る。私は死ぬまで「ら抜き言葉」は使うまいと考えていた。
 作家の中でも井上ひさし氏や丸谷才一氏は、現在の時点での美しい日本語に固執されていて、若者言葉や暗号めいた簡略語…を排されているようで心強かった。しかし「ら抜き言葉」は大学教授やその他の知識人にもじわじわと浸透し、急速な広がりを見せている。先に挙げた国語審議会の委員の中にも、言葉というものは変わって行くものである、と言う立場の人もいる。
 どこから近代というかはさて置いて、明治に入ってから言文一致、書信の候文、やはり大きかったのは文語体から口語体への以降は一番大きな文体の変化を齎したものではないかと考える。私は旧制中学まで旧仮名遣いで過ごしてきたが、案外早く新仮名遣いには慣れたが、当用漢字には今でも強い反感を抱いている。漢字一文字ひと文字にはそれぞれ意味とともに、雰囲気といおうか固有の味わいがあり、文脈の中で出来るだけ多様に使い分けたいと思っている。
 寂しい 淋しい 寥しい
 喜び 慶び 悦び 歓び
 など、その時の自分の感情を表す言葉も使い分けたいと思っている。

 ここから、今まで連綿と綴ってきたものと、がらっと変わる。
 実は、内田百閒〔1880~1971〕という「百鬼園随筆」という著書でもよく知られた随筆家が昭和26年から昭和30年まで、小説新潮、文芸春秋などに書いている「第一阿呆列車」から「第三阿呆列車」まで、列車で目的地点まで行き、観光も見物もするでなし、ただ列車旅のことのみを綴った旅行記が、新潮文庫から出たので、一つ読んでみようかなと思った。だが吃驚仰天、年代からみてちょっと古い文体だろうな…とは思っていたが。なんと昭和2年生まれで旧かな使いには馴れていても、その用語、文章いささか違和感があり過ぎた。
 まず、どんな文体で書かれているものかを「第一阿呆列車」の冒頭の部分を引用する。

『阿呆と云うのは、人の思わくに調子を合わせてそう云うだけの話で、自分は勿論阿呆だなどとは考えていない。用事がなければどこへも行ってはいけないと云うわけはない。なんにも用事がないけれど、汽車に乗って大阪に行ってこようと思う。』

と言う風に始まる。思ったより古臭い、旧かな遣いの文章ではないが、内田百閒氏独特の考え方の一端がにじみ出ているように感じられた。だが、3冊を読み進んでゆくうちに、百閒氏の用語に現代の文章には見られない言葉遣いが眼を惹くようになる。

● 私の胸中すでに成竹がある。〔成算?〕
● 六ずかしい 〔難しい〕
● 「歩廊」〔この場合はプラットホームのこと〕
● 靠れる 〔よりりかかる〕
● ボイ →ボーイ  ホオル →ホール  トウスト →トースト  コムパアト →コンパート などのかな書きの表記の仕方
● 障碍 →障害の常用外の漢字
● 了諾を得て →承諾を得て
● 成る可く →成るべく
● その所為だ →そのせいだ 〔今どき所為は余り使わないだろう〕
● 到頭 →とうとう
● 雨が小熄みになって 〔雨が小止みになって〕
● 雨上がりの雲が段だらになって
● いっそ長夜の飲と行くか
● 足頸〔足首〕
● 隣の一等車の座席に遷座して〔隣の一等車の座席に移って〕
● 雨が降り灑ぐ 〔雨が降り注ぐ〕
● 噪音 〔騒音〕
● 由由敷一大事 〔由由しき一大事〕

もうやめた止めた。初めて読んだときに気になった言い回しや用語をこの稿を書くとき3巻から拾おうとページを繰ったが、なかなか見つからないもの。

 日本語の文体について書いているうちに、妙な所に迷い込んでしまった。事の序でに内田百閒氏の人称にも触れておく。氏は知人、友人、旅の途中で世話になった人物の誰一人実名を挙げていない。親しい人物はその人物の印象で綽名を付けている。まず「阿呆列車」にいつも誘っている人物は、どうしたことか「国有鉄道にヒマラヤ山系と呼ぶ職員がいて年来の入魂である」年は若いし邪魔にもならぬから、と云っては山系先生に失礼ではあるが、彼に同行を願おうかと思う。…と旅支度の荷物持ちからキップの手配まで面倒をかけている。
 その他、編集者の椰子君〔ひょろりと背が高いのか〕、交阯君〔知人〕、夢袋さん〔国鉄職員、百閒先生の「阿呆列車」の際には几帳面にプラットホームまでやってきて見送り、出迎えをする。その時々で見送亭夢袋さんになり、出迎亭夢袋さんになる〕状阡君〔知人〕。垂逸君〔タレソレクン、初めて会った人〕、何樫君〔ナニガシクン、初めての人〕は 誰それ、何某のもじりらしい。懸念仏という名前も出てくる。
 まだまだ全てを尽くしていないか面倒なので、ここで打ち止め。

 私は長らく現代の文体が一番美しいと信じていたが、明治以来、何十年かのスパンで文体の変革や流行があり、私の考え方も少しく揺らいできた。これもこれも内田百閒氏の3冊の『阿呆列車』を読み通したせいかも知れない。国語審議会の一部の委員の主張されている通り、時代により『日本語』とは変化してゆくものかもしれない。そうは云っても最近の芸能人の一部や小ギャルの使う言葉にはまだまだ反感のほうが先にたつ。諸兄諸姉にはいかに考えられるだろうか。
(2005年7月29日)

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30.07.2005

ろまねすく「声に出して読みたい日本語」


koe

 最近、突然文筆の世界に、あるいは芸能界に登場して、あれよあれよと言う間に多彩な活動を広げる人がいる。例えば「声に出して読みたい日本語」という本を草思社から上梓して話題になった斉藤孝氏である。東大法学部を出て、現在は明治大学文学部助教授。
 近年、日本語に関する論争がいろいろな場面で繰り広げられているが、その隙間を突く様に「口に出して読む」というからマスコミに現れ、みるみる健康体操のようなものから子供の教育問題まで手を広げられ、柔和なイケメンと語り口からテレビにも活動の場を広げている。
 私は本の題名に惹かれて買って一読してみたが、中身に般若心経あり歌舞伎の名せりふあり、大道芸の口上、漢詩あり能狂言あり…あまりに雑多な中身なので、こりゃ自分の趣味に合うもので作りなおすしかあるまい、と思い定めた。斉藤氏は「暗誦・朗誦がしやすいテキストとすることをねらいしとました」と後書きに書かれていたが、私は声に出して読むテキストは日本語古来の七五調、五七調が気持ちよく口に出来ると思うので、白鳳社から「青春の詩集シリーズ」の中から、三好達治、北原白秋、室生犀星、佐藤春夫の詩集を選んでみた。さて如何なるものになりますやら。
 なお、海外の詩人のものは、「ろまねすくの『一点鐘』」として、下記のものをジオシティーズに作ったブログに載せた。

 上田敏譯詩集「海潮音」より (1)~(4)
 上田敏譯詩集「牧羊神」より (1)~(4)
 名訳詩集より        (1)~(2)

  http://geocities.yahoo.co.jp/gl/romanesque/  「ろまねすくの『一点鐘』」

■三好達治詩集より


      春  の  岬

春の岬旅のをはりの鴎どり
浮きつつ遠くなりにけるかも

     これは短歌ですが、平易な言葉で眼の前に岬と鴎の舞い飛ぶ情景が
     理屈ぬきに脳裏に浮かんでくる、私の最も好きな詩です。三好達治
     の処女詩集『測量船』の冒頭に載せられています。

      乳  母  車

母よ-
淡くかなしきもののふるなり
紫陽花いろのもののふるなり
はてしなき並樹にかげを
そうそうと風の吹くなり

時はたそがれ
母よ 私の乳母車を押せ
泣きぬれる夕陽にむかって
轔々(りんりん)と私の乳母車を押せ

赤い総ある天鵞絨(びろうど)の帽子を
つめたき額(ひたい)にかむらせよ
旅いそぐ鳥の列にも
季節は空を渡るなり

淡くかなしきもののふる
紫陽花いろのもののふる道
母よ 私は知っている
この道は遠く遠くはてしない道


      

太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪ふりつむ。
次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪ふりつむ。


      甃 の う え

あはれ花びらながれ
をみなごに花びらながれ
をみなごしめゆかに語らひあゆみ
うららかの跫音空にながれ
をりふしに瞳をあげて
翳りなきみ寺の春をすぎゆくなり
み寺の甍みどりにうるほひ
廂々に
風鐸のすがたしづかなれば
ひとりなる
わが身の影をあゆまする甃のうへ


     少  年

夕ぐれ
とある精舎の門から
美しい少年が帰ってくる

暮れやすい一日に
てまりをなげ
空高くてまりをなげ
なほも遊びながら帰ってくる

閑静な街の
人も樹も色をしづめて
空は夢のように流れている


      草  の  上
    *
野原に出て坐っていると、
私は待ってゐる。
それはさうではないのだが、

たしかな約束でもしたように、
私はあなたを待ってゐる。
それはさうではないのだが、

野原に出て坐っていると、
私はあなたを待ってゐる。
そうして日影は移るのだが―
     *
かなかなはどこで啼いている?
林の中で、霧の中で

ダリアは私の腰に
向日葵は肩の上に

お寺で鐘が鳴る。
乞食が通る。
    
かなかなはどこで啼いている?
あちらの方で、こちらの方で。
    *
池のほとりの黄昏は
手ぶくろ白きひと時なり

草を藉(し)き
静かにもまた坐るべし

古き言葉をさぐれども
遠き心は知りがたし

我が身を惜しと思ふべく
人をかなしと言う勿れ
    *
鵞鳥は小径を走る。
彼女の影も小径を走る。

鵞鳥は芝生を走る。
彼女の影も芝生を走る。

白い鵞鳥と彼女の影と
走る走る—走る

ああ、鵞鳥は水に身を投げる!


     艸千里浜 

われ嘗て(かって)この国を旅せしことあり
眛爽(あけがた)のこの山上に、われ嘗て立ちしことあり
肥の国の大阿蘇の山
裾野には青艸しげり
尾上には煙なびかふ 山の姿は
そのかみの日にもかわらず
環(たまき)なす外輪山(そとがきやまは)
今日もかも
思い出の藍にかげらふ
うつつなき眺めなるかな
しかはあれ
若き日のわれの希望(のぞみ)と
二十年(はたとせ)の月日と 友と
われをおきていづちゆきけむ
そのかみの思われ人と
ゆく春のこの曇り日や
われひとり齢(よわひ)かたむき
はるばると旅をまた来つ
杖により四方をし眺む
肥の国の大阿蘇の山
駒あそぶ高原(たかはら)の秋
名もかなし艸千里浜


     一点鐘二点鐘

静かだった
静かな夜だった
時折りにはかに風が吹いた
その風は そのまま遠くへ吹きすぎた
一二瞬の後 いつそう静かになった
さうして夜が更けた
そんな小さな旋じ風も その後谿間を走らない……

一時が鳴つた
二時が鳴つた
一世紀の半ばを生きた 顔の黄ばんだ老人の あの古い柱時計
柱時計の夜半の歌
山の根の冬の旅籠の
憶(ああ)あの一点鐘
二点鐘

その歌声が
私の耳に蘇生(よみが)える
そのもの憂げな歌声が
私を呼ぶ
私を招く

庭の日影に莚(むしろ)を敷いて
妻は子供と遊んでいる
風車のまはる風車小屋
―――玩具(おもちゃ)の粉屋の窓口から
砂の麺麭粉(ぱんこ)がひぼれ出る
麺麭粉の砂の一匙を
粉屋の屋根に落としこむ

くるくるまはれ風車……
くるくるまはれ風車……

卓上の百合の花心は
しつとり汗に濡れている
私はそれをのぞきこむ
さうして私は 私の耳のそら耳に
過ぎ去った遠い季節の
静かな夜を聴いている
聴いている
憶あの一点鐘
二点鐘


     さやうなら日本東京

ぼつぼつ桜もふくらんだ
旅立たうわれらの仲間
名にしおふ都どり
追風だ 北をさせ
さやうなら吾妻橋
言問 白髭
さやうなら日本東京
さやうなら闇市
さやうなら鳩の街
新宿上野のお嬢さん
一万人の靴磨き
さやうなら日本東京
さやうならカストリ屋台
さやうなら平沢画伯
さやうならさやうなら
二十の扉 のど自慢
さやうならJOAK
八木節と森の石松
さやうなら日本東京
さやうならエノケン
さやうならバンツマ
さやうなら元気でゐたまへ
丸の内お濠の松
さやうなら象徴さん
さやうならその御婦人
数寄屋橋畔アルバイト
南京豆と宝くじ
インフルエンザとストライキ
さやうなら日本東京
ポンポン蒸気の煙の輪
なつかしい隅田川
さやうなら日本東京

■佐藤春夫詩集


     秋刀魚の歌

あはれ
秋かぜよ
情(こころ)あらば伝へてよ
―――男ありて
今日の夕餉に ひとり
さんまを食(くら)ひて
思いにふける と。

さんま、さんま、
そが上に青き蜜柑の酸(す)をしたたらせて
さんまを食ふはその男がふる里のならひなり。
そのならひをあやしみなつかしみて 女は
いくたびか青き蜜柑をもぎて夕餉にむかひけむ。
あはれ、人に捨てられんとするひとづまをと
妻にそむかれたる男と食卓にむかへば、
愛うすき父を持ちし女の児は
小さき箸をあやつりなやみつつ
父ならぬ男にさんまの腸(わた)をくれむと言ふにあらずや。

あわれ
秋かぜよ
汝こそは見つらめ
世のつねならぬかの団欒(まどゐ)を。
いかに秋かぜよ
いとせめて
証(あかし)せよ、かの一ときの団欒(まどゐ)ゆめに非ず、と。

あはれ
秋かぜよ
情(こころ)あらば伝へてよ、
夫に去られざりし妻と
父を失はざりし幼児とに
伝へてよ
―――男ありて
今日の夕餉に ひとり
さんまを食ひて
涙をながす、と。

さんま、さんま、
さんま苦いか塩つぱいか
そが上に熱き涙をしたたらせて
さんまを食ふは
いづこの里のならひぞや。
あはれ
げにそは問はまほしくをかし。


     しぐれに寄する抒情

しぐれ
しぐれ
もし
あの里を
とほるなら
つげておくれ
あのひとに
わたしは
今夜もねむらないでゐた―

あのひとに
つげておくれ


      海辺の恋

こぼれ松葉をかきあつめ
をとめのごとき君なりき。
こぼれ松葉に火をはなち
わらべのごときわれなりき。

わらべとをとめよりそひぬ
ただたまゆらの火をかこみ、
うれしくふたり手をとりぬ
かひなきことをただ夢み、

入り日のなかに立つけぶり
ありやなしやとただほのか、
海べのこひのはかなさは
こぼれ松葉の火なりけむ。


     ためいき

      

紀の國の五月なかばは
椎の木のくらき下かげ
うす濁るながれのほとり
野うばらの花のひとむれ
人知れず白くさくなり、
佇みてものおもふ目に
小さなるなみだもろげの
素直なる花をし見れば 恋人の
ためいきを聞くここちするかな。

      

柳の芽はやはらかく吐息して
丈高くわかき梧桐はうれひたり
杉は暗くして消しがたき憂愁を秘め
椿の葉日の光にはげしくすすり泣く

      

ふといづこよりともなく君が声す。
百合の花の匂ひのごとく君が声す。

      

なげきつつ黄昏の山をのぼりき。
なげきつつ山に立ちにき。
なげきつつ山をくだりき。

      

蜜柑ばたけに来て見れば
か弱き枝の夏蜜柑
たのしげに
大なる実をささへたり。
われもささへん
たへがたき重き憂を
わが恋の身を。

      六

ふるさとの柑子〔かうじ〕の山をあゆめども
癒えぬなれげきは誰がたまひけむ。

      

遠くはなれてまた得難き人を思ふ日にありて
われは心からなるまことの愛を学び得たり
そは求むるところなき愛なり
そは信ふかき少女の願ふことなき日も
聖母マリアの像の前に指を組む心なり。

      

死なんといふにあらねども
涙ながれてやみがたく
ひとり出て佇みぬ
海の明けがた海の暮れがた
―――ただ青くとほきあたりは
たとふればふるき思い出
波よする近きなぎさは
けふの日のわれのこころぞ。


     秋の夜

がらす障子を
ゆすぶりて
夜ふく風を
にくむなり。

かひなき人に
かた恋の
われを哂ふと
ふく風よ。

汝れが鋭き
あざけりは
君を落葉と
おもへとや。


     望郷五月歌

塵まみれなる街路樹に
哀れなる五月〔さつき〕来にけり
石だたみ都大路を歩みつつ
恋しきや何ぞわが古郷〔ふるさと〕
あさもよし紀の國の
牟婁〔むろ〕の海山
夏みかんたわわに実り
橘の花さくなべに
とよもして啼くほととぎす
心してな散らしそかのよき花を
朝霧か若かりし日の
わが夢ぞ
そこに狭霧らふ
朝雲か望郷の
わが心こそ
そこにいよへ
空青し山青し海青し日はかがやかに
南国の五月晴こそゆたかなれ
心も軽くうれしきに
海の原〔わだのはら〕見迥〔みはるか〕さんと
のぼり行く山辺の道は
杉檜樟の芽吹きの
花よりもいみじく匂い
かぐはしき木の香薫じて
のぼり行く路いくまがり
しづかにも登る煙の
見まがふや香炉の煙
山樵〔きこり〕が吸ひのこしたる
鄙ぶりの山の煙草の
椿の葉焦げて落ちたり
古〔いにしへ〕の帝王たちも通はせし
尾の上の道は果てを無み
ただつれづれに
通ふべききはにあらねば
目を上げてただに望みて
いそのかみふるき昔をしのびつつ
そぞろにも山を下りぬ
歌まくら塵の世をはなれ小島に
立ち騒ぐ波もや見むと
辿り行く荒磯〔ありそ〕石原
丹塗舟影濃きあたり
若者の憩へるあらば
海の幸鯨〔いさな〕捕る船の話も聞くべかり
且つは問へ
浦の浜木綿〔はまゆふ〕幾重なすあたり何処と
いざさらば
心ゆく今日のかたみに
荒海の八重の潮路を運ばれて
流れよる千種百種〔ちぐさももくさ〕
貝がらの数を集めて歌にそへ
贈らばや都の子等に


     好  日

光たゆたひ永き日を
見れども飽かずわが窓の
かすみの底の雪の山
夢よりもなほほのかなる

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14.08.2005

ろまねすくの「声に出して読みたい日本語」2

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 私の「声に出して読みたい日本語」は、上田敏博士の翻訳詩集「海潮音」から始まって、日本で私の若い頃に読まれていた日本の詩人のうち三好達治、佐藤春夫を取り上げてきましたが、長くなりすぎましたので、もう一人の北原白秋の作品は別に「ろまねすくの『声に出して読みたい日本語』②」とすることにしました。

■北原白秋詩集


     帰 去 来

山門は我が産土、      やまとは わが うぶすな
雲騰る南風のまほら、    くもあがる はえのまほら
飛ばまし今一度、       とばまし いまいちど

筑紫よかく呼ばへば     つくしよ かくよばえば
恋ほしよ潮の落差、     こほしよ しおのらくさ
火照泌む夕日の潟。     ほでり しむ ゆうひのがた

盲ふるに、早やもこの眼、  しふるに はやもこのめ
見ざらむ、また葦かび、    みざらむ またあしかび
籠飼や水かげろふ。     ろうげや みずかげろふ

帰らなむ、いざ鵲、      すへらなむ いざ かささぎ
かの空や櫨のたむろ、    かのそらや はじのたむろ
待つらむぞ今一度、      まつらむぞ  いまひととき

故郷やそのかの子ら、      ふるさとや その かの子ら
皆老いて遠きに、       みなおいて とおきに
何ぞ寄る童ごころ。      なんぞ よる わらべごころ


     落 葉 松

       

からまつの林を過ぎて、
からまつをしみじみと見き。
からまつはさびしかりけり。
たびゆくはさびしかりけり。

       

からまつの林を出でて、
からまつの林に入りぬ。
からまつの林に入りて、
また細く道はつづけり。

       

からまつの林の奥も、
わが通る道はありけり。
霧雨のかかる道なり。
山風のかよふ道なり。

       

からまつの林の道は、
われのみか、ひともかよひぬ。
ほそぼそと通ふ道なり。
さびさびといそく道なり。

       

からまつの林を過ぎて、
ゆゑしらず歩みひそめつ。
からまつはさびしかりけり、
からまつとささやきにけり。

       

からまつの林を出でて、
浅間嶺にけぶり立つ見つ。
浅間嶺にけぶり立つ見つ。
からまつのまたそのうへに。

       

からまつの林の雨は、
さびしけどいよよしづけし。
かんこ鳥鳴けるのみのる。
からまつの濡るるのみなる。

       

世の中よ、あはれなりけり。
常なけどうれしかりけり。
山川に山がわの音、
からまつにからまつのかぜ。


  詩集「思い出」序詩

思ひ出は首すじの赤い蛍の
午後〔ひるすぎ〕のおぼつかない触覚〔てざはり〕のやうに、
ふうはりと青みを帯びた
光とも見えぬ光?

あるひはほのかな穀物の花か、
落穂ひろひの小唄か、
温かい酒倉の南で
ひき毟る鳩の毛の白いほめき?

音色ならば笛の類〔るゐ〕、
蟾蜍〔ひきがえる〕の啼く
医師の薬らなつかしい晩、
薄らあかりに吹いているハーモニカ。

匂ならば天鵞絨〔びろうど〕、
骨牌〔かるた〕の女王〔クイーン〕の眼、
道化たピエローの面〔かほ〕の
なにかしらさみしい感じ。

放埓の日のやうにつらからず、
熱病のあかるい痛みもないやうで、
それでいて暮春のやうにやはらかい
思ひ出か、ただし、わが秋の中古伝説〔レジエンド〕?


     ほのかにひとつ

罌粟ひらく、ほのかにひとつ、
また、ひとつ……

やはらかき麦生〔むぎふ〕の中に、
軟風〔なよかぜ〕のゆらゆるそのに。

薄き日の暮るるとしもなく、
月しろの顫ふ〔ふるふゆめじを、

縺れ入るピアノの吐息
ゆふぐれになぞも泣かるる。

さはれ、またほのに生れゆく
色あかきなやみのほめき。

やはらかき麦生の靄に、
軟風〔なよかぜ〕のゆらゆる胸に、

罌粟ひらく、ほのかにひとつ、
また、ひとつ……

■「柳川風俗詩」より

     柳  川

もうし、もうし、柳川じや、
柳川じや、
銅〔かね〕の鳥居を見やしゃんせ。
   (馭車(ぎょしゃ)は喇叭の音をやめて、
    赤い夕日に手をかざす。)

薊の生えた
その家は……
その家は、
旧い昔の遊女屋(ノスカイヤ)。
人も住まわぬ遊女屋(ノスカイヤ)。
裏のBANCO(バンコ)にゐる人は……     【注】BANCO は縁台。ポルトガル語
隣の継娘、                        の転訛か。
継娘。

水に映ったそのかげは、
そのかげは
母の形見の小手鞠を、
小手鞠を、
赤い毛糸でくくるのぢゃ、
涙片手にくくるのぢゃ。

もうし、もうし、旅の人、
旅の人、
あれ、あの三味をきかしゃんせ、
鳰(にほ)の浮くのを見やしゃんせ。
  (馭車(ぎょしゃ)は喇叭の音をたてて、
    赤い夕日の街に入る。)

夕焼け小焼け、
明日天気になあれ。


     紺屋のおろく

にくいあん畜生は紺屋のおろく
猫を擁(かか)えて夕日の濱を
知らぬ顔して、しゃなしゃなと。

にくいあん畜生は筑前しぼり、
華奢な指さき濃青にそめて、
金の指輪もちらちらと。

にくいあん畜生が薄情な眼つき、
黒の前掛、毛繻子か、セルか。
博多帯しめ、からころと。

にくいあん畜生と、擁(かか)えた猫と、
赤い入日にふとつまされて
潟に陥って死ねばよい。ホンニ、ホンニ・・・・・・


     かきつばた

柳川の
古き流れのかはつばた、
昼は *ONGO の手にかをり、
夜は萎れて
三味線の
細い吐息に泣きあかす。
   (鳰(ケエツブリ)のあたまに火が點いた、
    潜(す)んだと思ふたらちょいと消えた)。    
                    *ONGO とは良家の娘、柳川語


     梅雨の晴れ間

廻せ、廻せ、水ぐるま、
けふの午から忠信が隈どり紅いしゃつ面に
足どりかろく、手もかろく、
狐六法踏みゆかむ花道の下、水ぐるま・・・・・・・・・

廻せ、廻せ、水ぐるま、
雨に濡れたる古むしろ、円天井のその屋根に、
青い空透き、日の光、
七宝のごときらきらと、化粧部屋にも笑ふなり。

廻せ、廻せ、水ぐるま、
梅雨の晴れ間の一日を、せめて楽しく浮かれよと
回り舞台も滑るなり、
水を汲み出せ、その下の葱の畑のたまり水。

廻せ、廻せ、水ぐるま、
はやも午から忠信が紅隈とつたしゃつ面に
足どりかろく、手もかろく、
狐六法踏みゆかむ花道の下、水ぐるま・・・・・・・・・


   ■ろまねすく追記: この詩は私が京都の紫明混声合唱団に在籍していたとき、
         作詞 : 北原白秋    作曲 : 多田武彦
         男声合唱組曲「柳川風俗詩」
    として京都大学男声合唱団の発表会で初めて聞き、その異国情緒たっぷりの
    歌詞と多田氏の曲に多大の感銘を受けたことがあった。
         組曲は  柳川
               紺屋のおろく
               かきつばた
               梅雨の晴れ間
  からなっていて、特に第一曲の「柳川」は、私の青春と重なり合っていて懐かしい。


     六 月

白い静かな食卓布(テーブルクロス)、
その上のフラスコ、
フラスコの水に
ちらつく花、釣鐘草。

光沢(つや)のある粋な小鉢の
釣鐘草、
汗ばんだ釣鐘草、
紫の、かゆい、やさしい釣鐘草。

さうして噎び(むせび)あがる
苦い珈琲(コウヒイ)よ、
暑い夏のこころに
私は匙を廻す。

高窓の日被(マルキイズ)、
その白い斜面の光から
六月が来た。
その下の都会の鳥瞰景。

幽かな響きがきこえる。
やわらかい乳房の、男の胸を押さへつけるやうな……
苦い珈琲よ。
かきまはしながら
静かにわたしのこころは泣く……


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18.08.2005

ろまねすくの「声に出して読みたい日本語」(3)

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 今回みなさんに紹介する「声に出して読みたい日本語」は、京都府立京都第二中学校で同期・同学級で過ごした同窓生、詩人・木島始君の作品である。終戦後、全国詩誌「列島」で活躍し、その後活動範囲を広げ、小説、児童文学から合唱曲、オペラの歌詞にまで才筆を披露。詩集や児童図書まで数えると、著書は百冊をこえているのではないか。
 「日本共和国初代大統領への手紙」という痛烈な風刺をユーモアでくるんだ様な長編詩を出したこともあったが、私のみるところ歳をとるにしたがって、判りやすい言葉で私たちの年代が親しんだ定型詩の世界に戻り、4行詩、十二行詩を勢いよく噴出する泉のように作っていたが、アメリカを始め欧米の詩人たちとも交流を深め、共作の詩集まで世に問うている私・・・ろまねすくにとって眩いばかりの存在だった。が1年前長い闘病の末先立ってしまった。
 卒業後、京都に住む私と東京にいる木島君とは四十年ちかく会うこともなかったが、東京にいる同期生のメンバーに誘われて、久し振りに再会した。銀座の会場に現れた木島君は、白髪で白髯をたくわえ、室町の繊維問屋の御曹司時代の白皙の美青年とは、ちょっと戸惑うほど時間の堆積を感じたが、暫く話しているうちに、柔和な眼差しの中に中学生時代の小島昭三くんを発見していた。


■「列島詩人集」より


     抜け道

なんだい くだらんよ
らくだいくらい へいきだ
なれたら らくだよ

まわりみちして
ひまわり みにゆく
ひまこそ だいじさ

はらが たったら
はらっぱで
らっぱふこう


     お休みくんのうた

さわやかな朝をつれて
自信あれげな顔をして
お休みくんはやってくる
めざめたばかりの恋の思いと
くらべてくれといいながら

 やあ お休みくん
 さっばりした気分だな
 あそべるだけ あそぼうや
 そうして こうして
 お休みくんと おもうぞんぶん
 ふざけたい気持ちがいっぱい
 めったやたらと ふざけたいのだが
 ラブダブザブ ズンダッタ
 みどりのはらっぱに でくわせず
 おどりべたの お休みくんが
 いて て て 足にけがをして
 きげんをそこねてしまうやいなや
 しゃがみ うつぶせ へたりこんだ
 だいじな だいじな お休みくんの
 きずぐちの手あてのしかたが
 だれにもどうにもわからないものだから
 やむなく手あたりしだい
 きている布きれ ひっちぎり
 ほうたいにしてみたものの
 ぷいと 背をむけていくいじわるさ

くたびれた ボロこしらえ
やつれはてた姿のまんま
お休みくんはいなくなる
けんかわかれのつらい苛立ちを
胸のおくにのこしながら


■日本現代詩文庫 101 〔新〕木島始詩集・・・より

 〔この詩集の表紙に1篇の詩が載せられていた
     手紙で恋の顔たしかめるように
     譜面で耳の音さぐるように
     自分という未知の友は
     神さえも覗けなかった
     胸の洞穴をもっている
     うっかり洩らす微笑みは
     自分が崩れる漣なのか
     自分で知らない宝石の嘘なのか
  私はずっと京都で暮らし、木島君は東京で活躍していたので、彼の表紙の詩が彼の本音の気分を言い表して いるものなのか、どうかは判らない〕

     起  点
    ーー一九四五年ーーー

手にふれるものは
みな熱い

ねじまがった
真鍮の
ボタンと
帽子の
校章だけが
これだ
これが彼の
死骸だと
生きのこった
ぼくらに
わからせた
あのときの
火傷するような
恐怖の焔と
濛々の煙と
熱気と
屍臭とにみちみちた

一九四五年

夜ごと
夜ごとに
日のくれるのも
遅いとばかりに
遠吠えのような
はるか
かなたの
爆音を
深く
ふかく
吸いこんでゆき
いつしか
暗黒の圧力を
そなえるようになった
あのころの
夜空の
不吉さ
夜空の
不気味さ
その
毎夜の
頭上の
うなりに
ぼくらは
おたがいの
耳もとの
腕時計の
コチコチという
一秒一秒の
おののきを
あゝあの
そのたびに
投身するような
おののきを
かがんだ姿勢のまゝ
ぼくらの
末梢神経の
内部に
ぎりりと
刺しこませ
食いこませ
切りこませて
冷汗に
ふるえ
そのたびに
歯がみした

あゝ 一九四五年

言わば
この年の
異常な夏は
むせるような
暑さから
暑さへと
完全な昏闇のなかて゛
息ぎれだけを
おたがいの言葉としながら
くる日も
くる日も
逆立しつゝ
歩んでゆく
よちよちの
幼児のような
拷問だった

そして
あの日
突如として
歴史の姿は
あかるみにでた

だがあゝ
目隠しされていたことさえ
わからなかったほど
いまいましい過去はない

一九四五年の夏
                           (一九五二)

     断章 Ⅱ

その年
齢(とし)は十五
銃重く肱は疲れ
俯伏す狙いが噛みしめる
見渡すかぎりの荒野の砂礫……
                             (一九四八)
    ☆
一九四…年
校庭の芝は
戦況をよそに芽を吹いた。
なぜか時間のはじめから
怒るときに
膝をふるわせる癖の配属将校は、
身体ごとおちつかず
額にしわがふかかった。
整列した級友のひとりひとりに
暗い錘が垂れさがる。
拳銃のまま
点検する
ながい五分十分。
肱が
痛さに耐えかねる、
肩が
わめく。
銃下ろすーーー
と、
やにわにサーベルが
空にむけて
光る光る一閃二閃三---
うつぶす鼻に、
新芽がつんとかぐわしい!
内出血の頬を匍う
傷、---
   (膝をがくがく震わす陸軍中尉!)

一九四…年のこと

                            (一九四八)


≪以上の二篇の詩は、無謀な太平洋戦争に突入した昭和16年から、終戦の昭和20年までの、いわば戦中派の青春を過ごした記憶が、脳裏にあざやかな映像を映し出すものとして、終生忘れがたい……ろまねすく≫


     息絶えた言葉を悼む歌


街はいたるところ灰だけれど
わたしの はりつめる
心の中に 巣があって
言葉は 飛び立っていく鳥だった

        ほんと?
       ほんと
      ほんとう?
     ほんとだよ
    ほんと!
  ほんとさ!
あのひとと わたしを往き来して
やさしい響きの 輝きを放ち
言葉は はばたきの肌ざわり
ときめく視野を もち
迷いみち 喜び 勇ましかった

 ほんと?
  ほんとだよ
   ほんと?!
    ほんとだよ
     いつも臨終(いまわ)の
     きわを
     越え
     飢えては
     青空に
     くらいつき
    言葉は餌を
   生齧りしに
  木のぼりを競っている
欲情のリスの転落だった

   ほんと?
    ほにとだとも!
    ほんと?
それから羽根のむしりあい
 ほんと?

 ほんと!
  は
 宙吊りにして
 赤裸の罰をくわえあい
 みせしめあい あっ もう
 すっかり姿を見せなくなった

で わたしと あのひとのあいだでは
言葉は 落ちていく鳥の糞なのだ
いたるところ街は自動車でいっぱいだけど

 ほんと?
   ほんとさ!
  ほんとっ?
ほ ん と
  ほ ー ん ー と !
ほ ほ ほ


     ふしぎなともだち


ほねをならすと
でんわにでる
ふしぎなともだちが
ぼくにはいる

ねつがでると
やいのやいのと
じぶんから
はなしかけてくるやつだ

ちょうしにのる
ときにはだまっていて
わるくなると
いやみをいうやつだ

どんなかおだと
かがみをみたら
ふてっときえて
いなくなるやつだ

よるひとりきり
のときいちばん
しゃべりまくり
ひとりごとをいうやつだ

しぬまでぼくと
いっしょだよと
かってにきめてる
へにちくりんなやつだ

うるさいけれども
おいはらえない
かげよりしっこい
かくれたやつだ

どうにもつかまらん
こえだけきこえる
ふしぎなともだちが
ぼくにはいる


     木のうた


ちんじゅのもりのまんなかに
ふしぎな木がたっていた

こどものかみのけひっぱって
えだにしばりつけとくきだった

ひとしばりの木をみようと
おそるおそるあるいていった

もりはくらくてくらくて
どの木がそのきかわからない

かぜがふきだして木がゆれた
さあさあざあっと木がゆれた

  おどろき
  もものき
  さんしょのき

さあ さあ ざあ ざあ
さあ さあ さあ

  とんちき
  かきのき
  めくるめき

さあ さあ ざあ ざあ
さあ さあ さあ

  くりのき
  とびのき
  からげんき

さあ さあ ざあ ざあ
さあ さあ さあ

みのなるきはいくつある?
こどもしばりの木はどの木なの?

     <ちょうすてき>の巻


   ほんとにできたらな
ちょうすてき
カメラでとれるんかも
願いごとといっしょ
流れ星つかまえてさ


   てきもみかたも
ぴすとる ばくだん
うちあった ひとびとが
いっしょに 天を仰ぐ
おはかが あればな


  きらめくうた
しずかな おはかが ほしい
お祈り ハミング ゆらゆらとおす
光る クモのすだって
ちょうすてき

 ≪以下に採録した二つの詩は、木島始君が2004年8月14日、悪性リンパ腫のため逝去され、告別式で参列者に配布された木島君の二つの詩です。この二つの詩は1993年2月24日に株式会社「楡出版」から刊行された『ほんとの誕生日』という詩文集の中の「厄払いの唄」の文中にある詩で、彼の一生を概観できるような、あるいは彼の分身「扇千造」という人物に仮託して、来し方を回想した自伝的な書物になっている。私のこともチラッと触れられているので、私が辿ってきた道もいささか重なっているように思える。とくに最後の二編の詩は、長らく病気戦いながらペンを執り続けた木島君が、詩を見据えながら残した遺言のようにも感じられるのだ。≫


   【厄払いの唄】


やあら、ほいほい、めでたなや、
めでたなや、鶴は千年
亀は万年、東方朔は九千年
三浦のオースケ百むっつ
どないな悪魔がいよっても
これこのヤックバライが
ひっつかみ
西の海へとおもえども
近くの川のせせらぎに さらさら
さらっと ひとそうじ

やあら、ほら
ヤックハライマヒョ
ヤックハライマヒョ

ヤックハライマヒョ
ヤックハライマヒョ
やあら、ほいほい、めでたやな
鶴は千年
亀は万年
神州日本は火のくるま
嘘つき、ぬすっと、はぴこって
悪魔のやしゃご数しれず
どないな不仕合わせ見つけても
こうれこのヤックバライが
ひっつかみ東の海へとおもえども
近くの川のせせらぎに さらさら
さらっと ひさそうじ
やあら、ほら
ヤックハライマヒョ
ヤックハライマヒョ


   ねがいごと


あくひょうふひょうもせんでんぶんも
なにもかもやぶりすててくれるがいい
ほしいまはすなおなめへとすいこまれ
りふれいんとかしているわたし

おもいだせるなら
わらってるかおがいい
わすれされるものなら
ふんまんことごとくがいい

とむらいかたはまかせたい
がおぎりはねがいさげ
ならいっそぎしきばらず
むしゅうきょうひっそりがいい

しきはいらない
びじれいくはねがいさげ
なみだはいらない
さとれないとさとろうよ

すべてかたちあるものは
くずとゆきけしてしまえるが
かみももじもみあたらなくも
ひといきでことばはよみがえる


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22.12.2005

ローレンシャン高原の秋

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 カナダの東海岸に沿って、ニューヨークからナイヤガラの瀧、トロント、プリンス・エドワード島、ケベック、モントリオール、モンテベッロ、ローレンシャン高原、オタワ、ニューヨークと巡ったことがあります。9月の末にローレンシャン高原で素晴らしいカエデの紅葉を見られたことと、9月の末に雪に見舞われたことは、強く印象に残っています。
 ローレンシャン高原は、ケベック州の南にあり、オタワ川を隔ててすぐ川向こうがもうオンタリオ州というところ。皆さんも良くご存知のモントリオールから北西にクルマで1~2時間の高原一帯がローレンシャンと呼ばれる秋は砂糖カエデがなだらかな丘を埋め尽くす紅葉の名所であり、スキー場もあるアウトドア・スポーツ、リゾート地。大小7万ともいわれる湖沼が点在し、下の地図で見られるように道路網が整備され、美しい小さな町々が点在しています。
タイトル、地図、写真は画像をクリックすると、大きな画像が見られます


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 地図の上で、左下にある地名モンテベッロ(Montebello)には、大きさで世界一の大きさを誇るログハウスのホテル、シャトー・モンテベッロがあり、そこに宿泊してバスでローレンシャン高原を見て回りました。


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モントリオールを出て、どの位走っただろうか、右折して田舎道から幾重にも丘の間の道を暫く走ると、ボチボチ紅葉しかかっているカエデが現れてきます。お天気は今にも振り出してきそうなどんよりとした雲が垂れ込め、雨粒がバスの窓にかかり、斜めの線を描いてきました。

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 Lac SIR-JOHN という標識が路端に見えてきました。数え切れないほどの湖沼の一つでしょう。湖の岸にひょろりとしたカエデが真っ赤に色づいています。


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 SIR-JOHN湖の岸辺のカエデ。日本のモミジとは種類の異なる砂糖カエデの葉っぱは、やや大ぶりで蔦に似た葉をしています。1本の樹で濃い緑から薄緑、黄ばみかけたもの、縁から紅葉しているもの、全体が赤に染まっているもの・・・など、豊かな色彩の変化を現していました。

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 SIR-JOHN湖は平坦な土地のあり、豊かな樹木の様々な色に囲まれています。残念ながら小雨にしぐれる天候でしたので、色彩も冴えません。


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 低い峠への登り口で、小雨模様が霙まじりとなり、すぐ雪に変わると、ぐんと気温が下がり、樹木の葉や道路の路側帯に積もり始め、何とまだ九月なのにと吃驚。


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  斜面のカエデの横に可憐な花が咲いていました。


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 トイレ休憩で立ち寄ったSte-Sauveurの街。三角のとんがり帽子のような尖塔のある建物は、ブルートとホワイトに塗り分けられて、メルヒェンチック。そのかなたに聖堂の小さな町に似合わぬ堂々とした塔が見打ていました。

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 Ste-Sauveurの街中を歩いていて見つけた「キウイ」というカフェの看板。ちょっと愉快な木作りの兵隊人形がでんと中央に描かれていまとた。


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 Ste-Sauveurの街の聖堂る。


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  Ste-Sauveurの街の聖堂のファサード。

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  Ste-Sauveurの街には面白い看板が見られる。頑丈な木枠に吊り下げられた木製の板にビールのジョッキ、小麦の束、ブドウの房などいづれも木で拵えたフィギャアが取り付けられています。判り易いバーの看板でした。


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  Ste-Sauveurの街を歩いていると、次々と面白グッズが目に入ってきます。三体の人形・・・髭を生やした半袖姿の人形、ビキニ姿の人形、この薄ら寒い日にピーチで遊んでいるように日除けの帽子に色眼鏡。缶ビールを抱えているのでビアホールと一目瞭然。


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 土産物屋さんの店先。ガラスか透明なプラスチック製の積み木でしょうか。四角錐もあって、部屋飾りにもなりそうな洒落たもの。


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 ある店では、すてきな磁器製の絵皿のような文字盤の時計が掛け並べられていました。

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  Ste-Sauveurの街から眺めた住宅と背後の丘の景色。


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 Ste-Sauveurの街から眺められる緑の森と、背後の全山紅葉した景色。緑の林の中にくっきりと赤いシュガー・メープルが見事。

 


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 Ste-Sauveurの街の様子。

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 昼食をとった Ste-Sauveurの街のレストラン。

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 Ste-Sauveurの街のレストランの窓際に、無造作に投げ入れられていたメープルと蒲の穂がいい感じ。


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 レストランのスフェテラスには、テーブル・セットが10ほど並べられていたが、急に雪が降り出し寒くなってきたので、さすがテラス好きの欧米人観光客の姿は見られません。

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 レストランで昼食をとっていると、主人がギターを取り出し、私たちに数曲を披露してくれました。かたわらで愛娘が一心に歌う父親の顔を眺め続けていました。

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 ローレンシャン高原に点在する小さな村。


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 走るバスの窓から、時折、洒落た建物が目に入ります。


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 途中で寄った店で、真っ赤に熟れたリンゴが小さな籠に山積みされ並べられていたが、私たちの食べている種類と色艶の感じが違っていました。

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 ローレンシャン高原には、こんな広々とした道幅のルートもありました。

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なだらかな起伏の丘の麓の道を走っていると、農家の前庭に古めかしい農機具が無造作に放置している光景にも出会います。


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 日本の紅葉の名所といえば、深山幽谷での川の流れと岸に迫った崖や急峻な谿の両岸・・・が定番のような感じがしますが、ローレンシャン高原では丘全体にシュガー・メープルのオレンジがかった一色。


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 丘全体がシュガー・メープルの紅葉。


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 近寄ってみると、結構、針葉樹の深い緑もあるのですが。


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 丘の麓から林の中に分け入ってゆく小道は風情があります。


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 広いローレンシャン高原に点在している湖沼の一つ、かなり広いプラージュ湖畔にやってきました。湖畔に四阿がありました。日本人は一瞥するとすぐ次のポイントに立ち去ってゆきますが、欧米人はこんなところでゆっくりするのが好きみたいですね。


【以下・MONTEBELLOです】
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 ローレンシャン高原から南に100km、オタワ川の畔に、モンテベロという町があります。そこに建っている世界一最大のログ・ハウスがシャトー・モンテベロという高級ホテルがあります。赤杉1万本で組み上げられており、オタワでのサミットの会場にもなった名門ホテル。今は経営が変わったのか、フェアモント・シャトー・モンテベロと言う名称になっているとのこと。
 写真中央の角のところが玄関で、入ったところのエントランスが3階まで吹き抜けの天井となっています。


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 シャトー・モンテベロの正面玄関。


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 ちょっと引いた所から全体をカメラに収めようとしましたが、左右の端が切れてしまいました。


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 裏庭に廻ってみると、ご覧のとおりの構造になっています。

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 横手の穂から見たシャトー・モンテベロの建物。

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先ほどの反対側の横手には、狩の矢筒を背負った乙女の像が立っていた。

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  広々とした裏庭の一角にオタワ川に面して、ヨットハーバーになっており、船着場もありヨット、ボートで訪れるお客さんもあるようです。


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 オタワ川に面した庭に並べられたサン・デッキ。


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 ここからは政治の中心地、首都オタワまではクルマで1時間余り、悠々と流れるオタワ川。

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 先にも書きましたが、吹き抜けの大きなロビーの中心には、天井に届かんばかりの大きな暖炉が聳えていました。

   【「ローレンシャン高原の秋はここまで。改めて首都オタワや他の街についても、改めてご紹介します】

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31.12.2005

美しい首都オタワ

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前回の「ローレンシャン高原の秋」で宿泊したシャトーモンテベッロを朝、専用バスで出発。オタワ川に沿って西に走る。小1時間ばかりして左折し、悠々と流れている広い川を渡ってカナダの首都オタワに入りました。
オタワは、フランス語圏のケベック州とはオタワ川を隔てて隣り合ったオンタリオ州の北にあるカナダの国政、行政の中心地です。南から北流するリド川がオタワ川と出合うところにあります。リド運河がオタワ川に流入する角にある丘、パーラメント・ヒルには壮麗なネオ・ゴシック様式の国会議事堂は、1857年にイギリスのビクトリア女王の命によりカナダで始めて建造されたもの。私たちのオタワ観光もこの国会議事堂から始まりました。
 【タイトル画像および本文中の写真は、クリックすると大きな画像で見られます】

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オタワ川に面したパーラメント・ヒルに建っている国会議事堂は、中央のセンター・ブロックの中央に聳えるピース・タワーの両翼にイースト・ブロックとウエスト・ブロックが、大きな広場の東西に広場を包むように対峙して威容を見せています。写真は西横の方角から写しています。


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 国会議事堂のシンボルとなっている中央センター・ブロックの平和の塔(ピース・タワー)は、オタワを不変の象徴とするため、1857年イギリスのビクトリア女王の命令により、ピース・タワーを中心とした国会議事堂が造られたといいます。タワー内にあるカリヨンは全部で57個の鐘でできています。


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 西翼の入り口からエントランスに入ったところにある吹き抜けの中二階にある紋章。

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 エントランス・ホールの中央を支えている太い柱。私がヨーロッパ各地の聖堂で見てきた円柱とは、どこか違った特徴を持つ様式でした。

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 吹き抜けのホールは二階の列柱回廊が見上げられます。

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 次に議場の一つ、多分、上院だと思いますが細長い議場の突き当たりに議長の大きな椅子と左右に二つずつの席があり、議員席は左右に相対するように与党と野党席があるさまは、まさに宗主国だったイギリスの議会場とそっくりでした。数名の係員が資料を机の上に配っていたので、これから委員会か本会議が開かれるのでしょう。


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 ピース・タワーから入ったロビーの壁面に「DOMINION OF CANADA」(カナダの統治権)のメッセージが華やかに額装されて掲げられていました。


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 議事堂の東西翼を貫く廊下は、円筒形の天井、床も壁も濃淡の赤褐色の大理石で、窓から射し込む陽光が反射して眩しいほど。


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 中央入り口のエントランス・ホールにはヴィクトリア女王の大きな肖像画が壁面に掲げられていた。


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 下院議事堂は上院と同じつくりになっています。議事の予定がないのか、まったく人影はありません。


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 下院の議事堂の天井。各州、各民族を表しているのか、八角の台座に紋章のようなものが描かれています。


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 天井の紋章を寛大したもの。


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 パーラメント広場の一角から国会議事堂をみたところ。


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国会議事堂の横のテラスから眺めたオタワ川対岸のハル市の景観。

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 国会議事堂を出て橋を渡ってハル市にあるカナダ文明博物館へ。とにかく広い敷地に曲線をうまく使ったユニークなフォルムの建物にのっけから眼を奪われました。2万5000ヘクタールという開けた空間だからこそ、波のような曲線が映えるのでしょうね。二つの建物の間に、オタワ川のかなたの百塔で知られたサン・ジミニアーノのように塔の林立する国会議事堂が見えています。

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 向かって右手の角のファサードは、どう見てもお祭りの獅子舞の獅子頭そっくりに見えませんか?二階の二つの窓は曲面で眼そっくり、間の出っ張りはまさに獅子の鼻。

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 左手に長く伸びている建物は、緩やかな曲面を描いています。このカナダ文明博物館の建物のフォルムは、北米大陸の形成をイメージして造られたもので、一階のグランドホールには、カナダ西海岸にすんでいた先住民六種族のトーテムポールや住居、カヌー等が展示され、二階は子供博物館や郵便博物館。三階のカナダホールには復元された住居や町を数々の展示物で、1000~1890年のカナダの発展の歴史を順を追って見られるようになっています。


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 先ほどの右手の棟を横から見ると、建物の曲線の構造のユニークさが感じられます。

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 建物に使用されている石材は、良く見ると古代の生物の化石が含まれています。


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 オタワ川に面した庭には、復元された原住民のテントが二張り、そのかなたに国会議事堂の立つパーラメント・ヒルが望まれます。


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 さてオタワ市内に戻ると、そのままバスでオタワ川に沿ったサセックス・ドライブに向かいました。まず右側に二本の高い尖塔のあるノートルダム聖堂が見えてきます。現存するオタワ最古の教会で、1839~85年に建造されたもの。


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 次に見えてきたものは全面がガラス張りになった、まるで植物園の温室のような外観のカナダ国立美術館。
1880年にロイヤル・カナディアン・アカデミーがクラレドン・ホテルに美術作品を展示したのが始まりで、2005年で創立125周年を迎えたもの。現在のガラス張りになってオープンしたのは1988年。ネイティブ・アートから中世ヨーロッパ美術、現代美術にまで及びます。


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 英国祖総督府の正面の門。


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 ロッククリフ公園から眺めた対岸のハル市。


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 宿泊したウエスティン・オタワ・ホテルの自室の窓から眺めた市外の風景。リドー運河沿いに建つホテルで南北に走るコロネル湾ドライブという通りに面しています。窓際のテーブルに置かれたランプシェード越しに眺めた市街の景観は格別。


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 窓からコンフェデレーション公園に沿った道のかなたに、国会議事堂が見えています。この通りはクイーン・エリザベス・ドライブ。


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 引き続き、窓からの眺め。近くの建物の屋根は銅版葺きで、古い建物の屋根は緑青で落ち着いた色合い。真新しく葺き替えた銅版の屋根は金のように輝いています。


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 宿泊したウエスティン・オタワ・ホテルの隣に、リドー・センターというデパートほどの大規模のショッピング・センターがあります。ここには二つのデパートと230もの専門店が入っています。写真は専門店が入っているフロアです。通路が広く明るく落ち着いた雰囲気。


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 リド・センターの吹き抜けのエスカレーター・ホール。近未来都市のような、ふしぎな空間構成。


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 宿泊したウエスティン・オタワ・ホテルの吹き抜けのエスカレータ・ホールもついでに紹介しておきます。

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 リド・センターの1階には食料品店やファースト・フードの店などがあります。吹き抜けのホール中央には、コーヒー・ラウンジのような、ゆったりとした休憩の場所があります。買い物に疲れたときの休憩場所としてとても良いスペースですね。


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 宿泊したウエスティン・オタワ・ホテルとリド・センターを二階で結んでいる陸橋があります。とまっていた路線パスは2連のバス。


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 翌日の朝、ウエスティン・オタワ・ホテルの自室の窓から、すぐ下を眺めると、リドー運河の畔のメープルの紅葉がとても品の良いピンクに染まっていました。その左上の建物は国立芸術センターの建物。


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 リドー運河は冬季は硬く結氷するので、朝夕通勤の人々がこの上をスケート靴を履いてスイスイ通勤しているそうです。自動車も通らず渋滞もなくすいすい気持ちが良さそうですね。ちょっとは寒く冷たいでしょうが。

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 一夜明けてから、ふたたびホテルの自室の窓から眺めた風景。高い建物や尖塔の屋根には緑青の緑が美しい銅版葺きの屋根が目立っています。 


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 カメラのレンズを望遠レンズに付け替えて、屋根の部分を強調して写真にしてみました。


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 ホテルの自室の窓から見える朝の風景を標準レンズに付け替えて撮ったオタワのリドー運河西の商業地区です。

   ***** 【カナダ・シリーズはまだまだ続くつもりです】 *****

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22.05.2006

マドローダム

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    マドローダム


  オランダの空軍将校ゲオルグ・マドローは、第二次大戦中レジタンス運動に加わっていたかどで捕らえられ、
ドイツの強制収用所で死亡する。嘆き悲しんだ百万長者の両親は戦後、息子を記念するためこのミニチュア・タウンをつくった。
 オランダ各地の名所129が正確に25分の1の縮尺で再現されている。ガリバー旅行記の主人公気取りで、オランダ見物が出来るというので子供にも大人にも人気が有り、毎年百万人もの見物客を集めている。ミニチュアを寄付した企業は、年々ここの地代を決まりとなっており、入場料収入と合わせるとマドローダムの収益はかにりのものとなる。これは全てオランダ国内の慈善事業に寄付される。名誉園長はオランダ女王である。

 ■タイトルから全ての写真は画像をワン・クリックするだけで大きな画像を見ることとが
        出来ます。

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  マドローダムのゲートを入ったところ。サッカー場が二面は取れそうなほどの広さが、一段低くなって土手で囲まれたところに、129ヶ所のオランダの名所、有名な建造物が配置されていた。

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 マドローダムのゲートを入ったところは、世界的な港湾都市ロッテルダムだろうか。新マース川に沿って石油の備蓄基地らしいタンク群が見え、停泊している船舶、水路を航行している荷船がいた。


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 ぼんやり見渡しているとミニチュア模型ということを忘れているほどに建物が精巧に造られているので、突然眼の前に土手のような斜面の芝刈りをしている作業員を見ると、周囲の建物と比べてまるで巨人に出会ったようて゛ギョッとする。


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 マドローダムで一番大きな水路・・・新マース川を行き交う客船、貨物船、小さなランチまで精巧なもの。


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 建物の前の広場には一杯花をつけたある花壇が、それらしい釣り合いの取れた大きさだが、その向こうに何かに見とれている人物の大きさを較べると異常な感じ。


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 今しも運河の畔を列車が走りすぎ、運河に架った小さな鉄橋を渡ってゆく、園内の各所に小さな運河が張り巡らせられ、鉄路も各所に分岐して伸びていた。


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 運河をボートがやってくる。

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 水位の異なる運河を航行してきた船は水門にかかって、いま通り抜けてゆく。

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 水位を調節して往来する船舶を通す二基の水門。本物そっくりに良く出来た水門のミニチュアは、どちらの方向から来た船も、水位をうまく調節しては捌くいている。そのたびに閘門を開いたり閉じたり、ミニチュアの船を通していた。

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 親子連れの観光客。

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 ミニチュアの建造物の前の池の畔を逍遥する小さな人々、もちろん人形。それを眺めている観光客はまるで巨人族。

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 何処の街の教会だろうか、勾配の鋭い屋根が聳える赤レンガの壮大な、しかしスマートな建物。周りの樹木も教会の丈とつりあった風情だった。


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 ヴェヒト川沿いのブルッケレンにある美しいナイロンローデ城。1275年に建てられ、1946年オランダのスクヘル・オブ・ビジネスとなり、1988年に大学として認められた。


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 マドローダムの園内を走るミニチュア列車の線路を見下ろす。

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 第二次世界大戦の英雄ジョージ・マドローに因んで造られたジョージ・マドロー兵舎。手前に写っている銅像はウイルヘルミナ王女の像。コインを入れると戦車隊が行進する。

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 17世紀に築かれた城壁の遺跡。数世紀を経て今ではほとんどが姿を消している。


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 どこか田舎町の公館か?中央に風車らしい羽根が見え、その向こうには飛行場。ジャンボ機らしいものが駐機している。


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 遊園地らしい施設があり、粉引きのための立派な風車の塔がある。10セントの硬貨を入れると遊園地のローラーコースターや観覧車が回りだす。

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 アムステルダムの新教会。1410年に建てられ、1452年に火災に遭い、1490年に現在のゴシック式十字形教会に再建された。広場や道路にたくさんの自動車や通行人が、今にも動き出しそう。

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 オランダの典型的な市街だろうか、道路の両側に建物が建ち並んでいる。

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 上と同じ場所。少し目線を下げると、建物に囲まれた庭に花壇が作られ植木が繁っている。真ん中に小さな銅像が台座の上にたっていて、アンネの隠れ家の三階の窓からの眺めを思い出す。

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 外国からの観光客ではなく、デン・ハーグの近くから来ているのだろうか、身軽な格好で歩いていた人。スマートな若夫婦と老夫婦。ヨーロッパの人々は南に行くほど背丈も小柄で、北に行くほど背が高い。その点でもこの二組の夫婦は対照的だった。オランダ人や北欧人はことに背が高いので、男子用トイレに入ると、精いっぱい爪先立ちしないと届かなくて弱った経験がある。

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 マルクト(マーケット)広場の様子が再現されている。テント張りの店が並び、小さなクルマが行儀よく駐車。

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 ミデルブルグ市の大聖堂。立派な塔は破壊される前のロング・ジョン塔。


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 この堂々とした大きな塔は、ユトレヒトにある高さ112メートルのドム塔で、様々な建築家により61年間かかって1382年に完成した。屋根まで465段、途中に協会、管理人宿舎、21の鐘などがあり、現在でもオランダで一番の高さ。路上はフラワー・パレード。


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 ユトレヒトの運河と古い館。


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 ヘルトーヘンボス市の聖ヤン教会。建造は1380年に始まり200年後に現在のカタチゴシックの特徴をよく現している。日本ではよく知られていない街にもこんな教会が有るのはオドロキ。

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 ■次にはオーストリアのクラーゲンフルトにあるミニチュア・ワールド 「ミニムンドゥス」をご紹介する予定。
   歳を取るとどうしてもスローライフになるのて゜、気長にお待ちの程を。
                      (2006年5月29日・・・やっと完成)


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11.09.2006

ミニムンドゥス

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 「ミニムンドゥス」とは、クラーゲンフルトの南西4キロのところ、ヴェルター湖の湖畔゜にある、ミニチュア・ランド。オランダのテン・ハーグにあるミニチュア・ランドの「マドローダム」(MADURO-DAM) によく似た施設だが、マドローダムがオランダ国内の有名な建築物、運河、エア・ポート、道路、市街風景、港湾、鉄道、スポーツ施設、工場など、国情を多面的に紹介するものであることに対し、ミニムンドゥスは、世界的な規模で有名な建造物を紹介するもので、その点、インターナショナルな文化施設だといえる。日本の建物では大阪城。

 パンフレットには、「大人も子供も楽しいひとときを過ごせるお伽の国。植込みや花壇で美しい園内に、世界各地の有名に建物 100以上が、25分の1の縮尺で正確に再現されています。」と述べられているが、門を入ったところの売店で買ったパンフレットの建物紹介のナンバーは 100どころか、149にも達していた。

 パンフレットで、モデル建物の地域を見ると、

 ヨーロッパ各地  フランス、ドイツ、ベルギー、オランダ、ポーランド、チェコ、ハンガリー、ルーマニア、旧ユーゴスラヴィア、ブルガリア、オーストリア、スイス、イタリア、トルコ、ポルトガル、グレート・ブリテン、ノールウェイ、スゥエーデン、ロシアまでを網羅している。・・・どうした訳か、スペインが入っていないのだ。
 その他の地域   アメリカ、ブラジル、南アフリカ連邦、エジプト、イラン、インドオーストラリア、ニュホジーランド、中国、それに「日本」も入っていた。

題名およびすべての写真はクリックして、大きな画像でご覧ください

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ミニチュア・ワールド 『ミニムンドゥス』 のメインゲート。


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 入り口から近いところに河川を模した水路があり、 帆船「ノバラ」 が浮かんでいた。帆船の向う岸にはイタリアのミラマーレ城が見えている。


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 世界中の著名な建造物が平坦な芝生の中に散らばり、公園の中の逍遥路を観光客たちが歩き回っていた。写真の手前の中央には「自由の女神」、その左手の奥には、イタリアのピサの斜塔が覗いている。


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 ブルガリアの 「リラの僧院」。首都ソフィアから南に約130km。深い山間に忽然と現れるリラの僧院は、14世紀以来のブルガリフア文化の伝統を伝えている。しかしミニチュアなればこそ、こんな俯瞰的な全体像が眺められる。


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 通称 「ブルー・モスク」の名で知られている 「スルタン・アフメット・ジャミイ」。トルコの首都イスタンブーールの屈指の観光ポイント。スルタン・アフメット1世が1616年に経てたモスクで、内壁を飾る青タイルの美しさからブルーモスクの名がつけられた。この写真は後方から撮影したもの。


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 「ブルー・モスク」の名で知られている 「スルタン・アフメット・ジャミイ」を公園の在る広場に面したファサードの方からの写真。


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 楽聖モーツァルトの退場地、オーストリアのザルツブルグにあるドーム教会。この地に司教座の置かれたドーム教会、聖ヴィルキルの創建。1181年~1200年に後期ロマネスク様式に改築され、内部は大理石、絵画で飾られていた。その後、戦災に遭って大破したが、戦後1959年に修築された。1961年に付けられた鐘はドイツ語圏内では最大のもの。


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 モスクワの赤の広場の一郭に、まるでアラビアン・ナイトの世界のように聳えている異様な葱坊主の塔を林立させている聖ワシーリー寺院。まるで飴細工のような華やかな色彩。


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 パリのムーランルージュ。クリシー大通りに面して、赤い風車もこう小さくては目立たないね。
ムーラン・ルージュ (Moulin Rouge) は1889年に誕生したパリのモンマルトルにあるキャバレーである。フランス語で「赤い風車」という意味で、実際に屋根の上に赤い風車がある。 歌やダンス、フレンチ・カンカンを組み合わせたショーで有名。また、画家のロートレックがここに通いつめ、踊り子たちをモデルに数々のポスターを描いたことでも有名である。 ここで活躍した著名な芸能人としてはエルビス・プレスリー、フランク・シナトラなど多数いる。

現在は観光スポットとして人気がある。

2001年にはここを舞台にして映画『ムーラン・ルージュ』が製作された。 同じタイトルの映画は1928年より上記を含め計6本作られている。

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 デンマークの首都コペンハーゲンにある旧コペンハーゲン証券取引所。クリスチャン4世によって建造された、典型的なオランダ・ルネサンンス様式の建物で、1619年に建築工事が始まり1640年に完成した。始めは世界各地から入航する商戦が持ち込む陶器、宝石などの高級品の取引をするところだった。後、近年になって証券等の取引所になった。


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 「バルト海の女王」と呼ばれハンザ同盟の盟主として栄えた北ドイツのバルト海に面した古都リューベックは、トーマス・マンの生誕地としても知られている。町の象徴のようなホルステン門は、1477年に建造されたときは塩の貯蔵庫として使われ、現在は博物館になっている。


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 オランダのアルクマール証券取引所。アルクマールはアムステルダムから北へ37キロのところにあるチーズ市で有名なところ。中世初期には小さな漁港があるのみであったが、11世紀に教会が立てられ都市特権を獲得し、近年は北ホランド地方の交易の中心として発展した。


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 ライン渓谷の温暖な気候に恵まれたヘツセン州の州都、ウイスバーデンのクアハウス (温泉療養所)。9世紀から「草原の湯治場」としていられている温泉で、写真のクワハウスの建物は1908年の建築である。


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 ドナウ河のコンテナ運搬船と鴨の親子

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 オーストリアのハイデンライヒシュタイン城。 ハイデンライヒシュタイン:16世紀の水上宮(13世紀の望楼)。展示室、コレクションがある。ラープス:国境の要塞。11世紀にはバーベンベルク家の重要な防衛拠点だった。騎士の広間には16世紀初頭のフレスコ画がある。


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  オーストリア東部のアイゼンシュタットにあるベルク教会。エスターハージィ侯の命で1701年以降建設された人工の丘には、多くの礼拝堂や祠が配され、ゴルゴタの丘へ登るキリスト受難の道を再現しています。丘の上のベルク教会には、1932年パウル・エスターハージィ侯がハイドン廟を建立、ウィーンの楽友協会が所蔵していたハイドンの頭部を提供、ようやく1954年になって大作曲家の遺骨がここに埋葬されました。

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 フランス王家の谷のど真ん中、ロワール川の支流シェールの川面に優雅な姿を映すシュノンソー城。フランスの数あるシャトゥの中でもひときわ女性的な美しさを誇る城、その美しさはフランス一、いや世界一とも言われます。
ではこの城にかかわる愛と憎しみの物語をひとつ・・・。
 シュノンソー城は、国王アンリ2世が愛妾ディアーヌ・ポワティエに贈った城。ところが、国王の正妻はあの誇り高きメディチ家の娘カトリーヌ・ド・メディシスは、ディアーヌ・ポワティエにうつつをぬかした夫につれなくされディアーヌへの恨みつらみはどんどん膨らんで行きました。彼女は16歳で、40歳年上のシャルル7世の孫ルイ・ド・ブレゼ伯爵に嫁ぎました。夫婦仲は睦まじかったようですがほどなく夫に先立たれ未亡人になります。フランソワ1世はディアーヌが持つ天性の美貌と知性の虜となり彼女をアゼ・ル・リドー城に住まわせ死ぬ迄、寵姫として愛し続けました。
 フランソワ1世の死と共に隠居生活に入るはずだったディアーヌですが・・・ だが しかしフランソワ1世の息子アンリ2世がそれを許さず彼女を自分のものにしました。アンリー2世は14歳で、彼は父の命令でメディチ家のカトリーヌと結婚。しかし正妻カトリーヌメディチス・には目もくれずアンリ少年は父の愛人に憧れ続け恋焦がれて・・・父が死に、19歳になったときやっとその想いがかなったのです。

 即位したアンリ2世から公爵の身分と、シュノンソー城を与えられたディアーヌ・ポワティエは、賜ったこの城が大変気に入り川の中の城館から対岸に橋をかけ、庭園を造営し使用人の住居(ドーム館)を整備する等住環境をよくする為の努力を惜しみませんでした。永遠に続くかと思われた麗しいこの城での優雅で幸福な日々しかし・・・幸せな期間はわずか12年悲劇は前触れも無く突然訪れました。1559年6月30日 好戦的で勇猛果敢なアンリ2世
パリで行われた騎馬槍試合に出場し、彼の警護隊長ガブリエル・モンゴメリー伯との試合でなんと!目に槍が突き刺さり重態そして10日後、手当てのかいもなくこの傷がもとであっけなく死んでしまいます。(事故とされたが、謀殺の疑いの噂も・・・)

 彼女は当時イタリアの名家中の名家大富豪メディチ家の出身。美貌には恵まれなかったものの洗練されたイタリアの豊かな暮らしの中で育ち知性と教養を身につけたその気位の高さはハンパじゃありません。なのに・・政略結婚とはいえ夫の愛を強く望んでいたのに夫は20歳も年上の愛人に夢中ショモン城(注:ショボン城ではない)で
夫に放ったらかされ正妻なのにまわりの者たちにも妾ディアーヌより軽んじられ面目丸つぶれでした。
 王が倒れると、城で王妃カトリーヌはただちにディアーヌが病室にきたかどうか家臣に尋ね、ディアーヌにただちに館に下がり王から受けた数々の贈り物を王家に即刻返還するよう求めました。そして10日後、アンリ2世が死ぬと自分の産んだ王子をフランソワ2世として即位させ自らが摂政の座につき全権力を自分の物にしてしまいます。
 シェール川に架けられた橋の上に二層の城館を増築し、マルクの塔に隣接して庭園を造園する事により城のイメージを一新、魅力的な女性好みの城館に変貌させ川を跨ぐ名城として益々評価を高めることになりました。


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 カイザー・ドーム教会。680年頃,竣功 ネオ・ゴチック様式 歴代ドイツ皇帝の戴冠式が行われていた. 8~10世紀カロリン,オット王朝時代には,皇帝の主教会となる 12世紀以降,皇帝,ドイツ王の選挙,戴冠式が行われる


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 カイザー・ドームを反対側から

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 ライン河に威容を映すブファルツ城 (税関城)。
ドイツ中央部を南北に流れるライン川。全長1320キロのうち、世界遺産に登録されているのは、マインツからコブレンツにかけての中部流域、65キロです。古城とラインワインのブドウ畑が織りなす美しい風景には、ドイツの歴史と伝説が彩られ、何世紀にもわたって多くの作家、芸術家、作曲家を魅了し、影響を与え続けてきました。
 ライン川は古くからヨーロッパの中央部を貫く水運の大動脈でした。13~14世紀にかけて、ライン川を行き来する船は通行税を取られました。川の通行税をめぐって、近隣の諸侯はこぞってライン川流域に進出し、その利権を争いました。14世紀には税関の数は60あまりにも達していたといいます。
 「ブファルツ城」は20名もの税官吏を有していた大きな税関の跡です。通行税を払わないものには武力が行使され、深さが9メートルもある井戸の牢獄に閉じ込めることもありました。ライン川の古城の多くは、こうした通行税を財源として築かれたのです。城には城主と契約を結んだ騎士たちが暮らしていました。13世紀に建てられた「マルクスブルグ城」は、これまで一度も壊されることがなく、中世の面影を今日に伝えています。騎士たちの生活の様子をしのばれる居間、食堂などが残されています。中世の動乱の中から現れた古城は、今もライン渓谷の美しい情景に溶け込み息づいています。

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 白鳥城の名にふさわしいドイツ・メルヒェン街道の花・・・ノイシュバンシュタイン城。ノイシュヴァンシュタイン城(Neuschwanstein)はドイツ、バイエルン州のフュッセン近くにある、バイエルン王ルートヴィヒ2世により建設された城である。現在はロマンチック街道の終点として、人気の観光スポットとなっている。その美しさから、また名前の原義(「新しい白鳥の石」)から白鳥の城とも言われている。ペラート峡谷にかかるマリエン橋から見るのが美しいと言われている。城の中を見学することができる。近くにルートヴィヒ2世が幼少時代を過ごした、彼の父が所有するホーエンシュヴァンガウ城がある。ノイシュヴァンシュタインという名は、現在ホーエンシュヴァンガウ城のある地にかつてあったシュヴァンシュタイン城にちなみ1890年になってから付けられた名であり(「ノイ (Neu)」は「新しい」の意)、建設当時はノイホーエンシュヴァンガウ城と呼ばれていた。

 ルートヴィヒ2世は中世騎士道への憧れを強く抱いた人物で、ワーグナーを庇護し、彼の創作する楽劇の世界に酔いしれた。膨大な額の援助を彼に施し、彼の楽劇を「私たちの作品」と呼んだが、狷介な性格のワーグナーはたとえ有力なパトロンであり国王であったとしても、作品に容喙することを許さなかった。一方、ヴァルトブルク城やヴェルサイユ宮殿を目にしたルートヴィヒ2世は、「私自身の作品」として自分の中世への憧れを具現化するロマンティックな城を造ろうと決意する。このため城全体のグランドデザインを行うよう指名されたのは建築家でも技術者でもなく、宮廷劇場の舞台装置・舞台美術を担当していた画家のクリスチャン・ヤンクであった。この城には、本来は必ずあるべき小聖堂や墓地がなく、玉座を後回しにしてもヴィーナスの洞窟と名付けられた人工の洞窟を造るといった具合で、徹頭徹尾王の趣味のためだけに建設された実用には不向きな城である。この城は1869年9月5日に建設が開始され、1886年には、なんとか居住できる程度にはできあがり、ルートヴィヒ2世は首都ミュンヘンに戻らず、この城に住まうようになるが、その期間はわずかに102日間で、王はベルク城に軟禁されてしまう。

 ルートヴィヒ2世はこの城の他にも、リンダーホーフ城、ヘレンキームゼー城の建設を始め、さらにはノイシュヴァンシュタインよりも高い岩山の上にさらに壮大なファルケンシュタイン城を建設する計画をたてており、その上オリエント風の宮殿も建設したいと考えていた。これらの建設費用は王室費から支出され、バイエルンの国庫とは別会計ではあったものの、王室公債などを乱発して借金を積み重ね、最終的には国家財政を脅かすまでになっていた。これに危機感をおぼえたバイエルン王国の首相ルッツらは、ルートヴィヒ2世を精神病により統治不能としてベルク城に軟禁した。その翌日、王は主治医とシュタルンベルク湖畔を散歩中に謎の死を遂げる。そしてルートヴィヒ2世が亡くなった1886年6月13日の時点でノイシュヴァンシュタイン城の工事は未完成部分を多く残したまま中止され、その直後から城と内部は一般公開された。


 
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 ノイシュバンシュタイン城の美しいファサード

 

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 トルコの首都イスタンブールのスレイマニエー・モすくの周辺。巨大なドームと4つの鋭い尖塔を持つ スレイマニエ・モスク は、金角湾の西岸にそびえ建ち、イスタンブールのモスクの中でも最も美しいモスクと言われています。1550~1557年にオスマン帝国の黄金時代の有名な建築家シナンによって建てられたこのモスクは、丘の頂上にあって、中庭の四隅にそびえる4つの尖塔がその大きさを際立たせ、どこからでも人目を引きます。内部のミフラブ(祈りのための壁のくぼみ)と説教壇はみごとな彫刻が施された白の大理石でできていて、美しいステンドガラスの窓から差し込む光は鮮やかな色に染められます。


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 インドの古都アグラ 美しいタージ・マハール。これが皇帝たる男の”愛のカタチ”。亡き妻に捧げた白亜の霊廟
:文化遺産 タージマハールは、ムガール帝国5代皇帝シャー・ジャハーンが22年間かけて造営されたいとしい妻へのモニュメント。
 正確無比なシンメトリーが美しいパレス風の建物。実は宮殿ではなく霊廟である。つまりおハカ。ムガール帝国5代皇帝シャー・ジャハーンが、亡くなった王妃のために1632年から22年の歳月をかけて造営したものだ。腕利きの職人を集め、のべ2万人が携わったというから、当時としては大国家事業。これぞ夫から妻へ捧ぐ愛の記念碑なのだ。

愛の代償は幽閉
シャー皇帝の予想外の末路
 
 しかし、この美談には続きがある。皇帝は晩年タージマハールの向かいに黒大理石の宮殿を建てようとしていたが、その矢先に第3皇子によって近くのアグラ城の塔に幽閉されてしまうのである。理由はタージマハール建築での莫大な浪費。結局皇帝は塔の中から7年間タージマハールを眺め、その生涯を閉じた。運命とは実に皮肉で残酷である。


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 中国の仏塔らしい5重の塔と、手前のはタイの寺院か。

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 ウイーンの地下鉄カールス・プラッツの駅。世紀末の建築家オットー・ワーグナーの作品。アーチ型の屋根にグリーンの骨組み。金の装飾、白い壁。対になった建物の一方はカフェ、他方は地下鉄への出入り口になっている。

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 ブリュッセルの華麗な建築が周囲に立ち並ぶグラン・プラス(広場)に、一際尖塔が展に向かって聳える市庁舎。
中央の尖塔は90メートルを超え、華やかなフラン・ボワイヤン様式の建物。

《ミニムンドゥスの項おわり》

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18.09.2006

ウイーンの森のハイリゲンクロイツ

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 海外旅行に出かけらけるようになる、ずっと以前から『ウイーンの森』という言葉は私の頭の中にずっと焼きついていた。ようやく忙しい仕事の間に、強引に時間を工面して海外に出かけられるようになったのは、もう50代も半ばになった頃。忘年某月、オーストリアを何度か訪れたのち、15日間の予定でオーストリア一国だけを巡る機会を得た。
 その時、ウイーン郊外のウイーンの森を巡り、一番印象の深かったのが、ヒンタービューールの町で、シューベルトが「菩提樹」を作曲した水車小屋を見学したあと訪れたハイリゲンクロイツのシトー派の修道院だった。

《タイトルおよび全部の写真はクリックして大きな画像でお楽しみください》


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 ウイーンの中の道路を森の中を緩やかに屈曲しながら走る。一つの森を抜けると、緑にうずまるように教会の丸屋根を頂いた塔が眼に入ってきた。どうやら目的地に近づいてきたらしい。

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 さらに進むと、ハイリゲンクロイツの町らしい風景がひらける。

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 修道院に近づくが、濃い緑に埋もれるような格好だ。


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 観光バスが数台駐車している広場でハスを下りる。建物の四隅に円筒形の小塔。入り口の脇に四角い台座の上に一人の人物像が立っていた。<誰だろう?>
ハイリゲンクロイツとは「聖なる十字架」の意。ここはレオポルド三世により1133年に創建されたオーストリア最古のシトー派修道院として有名なところらしい。修道院は重厚なロマネスク様式の聖堂と中庭の列柱回廊、ゴチック様式の聖堂の内陣が渾然一体、荘厳、霊妙な雰囲気を醸し出してた。13世紀のステンドグラスは鮮やかな色彩で、草花模様が多い。

Wienerwald (ニーダーエステライヒのバーデンの8マイルの北西部)の既存のシトー派修道会の修道院。それは、彼の息子オットーの依頼によるMargrave通りエル、バーガンディーのMorimundのシトー派修道会の修道院のアボットとその後Freisingのビショップによって1135年に設立されました。彼らの修道院長(ゴットショーク)と一緒のその初の修道士は、Morimundから来ました。Heiligenkreuzは、バーベンベルクの公爵によって、豊かに資産を贈与されました。15、16世紀の間に、それは流行、洪水と火事によってしばしば危険にさらされて、1529と1683年のトルコの戦争の間に、ひどく苦しみました。ほとんど全てのその修道院長は、信心と学習で有名でした。1734年に、ハンガリーのサンゴタール峠のアビーは、チャールズ VI天皇によってHeiligenkreuzに譲られたが、連れ去られて、1778年にZirezのハンガリーのアビーと団結します。その位置では、ウィーナー-ニュースタットのNeuklosterの修道院は、1880年にHeiligenkreuzに取り付けられました。 Heiligenkreuzの教会は、建築の2つのスタイルを結合します。クワイア(13世紀)(それは最初の教会の拡張です)がゴシックである間、身廊と袖廊(1187を捧げました)はロマネスク様式です。クワイアの13世紀のウインドウ絵は、中世の芸術で最も美しい残りのいくつかです。以下のシトー派修道会の修道院は、Heiligenkreuzから彼らの初の修道士を迎えました:1138年(まだ既存の)のニーダーエステライヒのZwettl;1142年(1526年に終わりました)のハンガリーのCzikador;1142年(1784年に終わりました)の北部オーストリアのBaumgartenberg;1194年(1526年に終わりました)のハンガリーのMarienberg;1206年(まだ既存の)のニーダーエステライヒのリリエンフェルト;1263年(1785年に終わりました)のボヘミアのGoldenkron;1327年(1785年に終わりました)のStyriaのノイベルク。Heiligenkreuzは、50,000のボリュームとそれ自身の神学上の神学校と大学の図書館を持っています。その52人の聖職者は、修道院に属している22の教区の情勢を教えて、管理することに従事しています。 『この項「カトリック百科事典」より』


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 修道院の正面入り口。 第一印象は、修道院というより学校の校舎への入り口といった感じ。建物全体を覆うベージュ色の壁面に、重厚な石造りのファサード、多大きなアーチの入り口。

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 中庭を囲む建物には、学校の校舎に似たベージュ色の棟と、中庭に面したところにロマネスク風の大きなアーチが連続している回廊になっているところもある。大きく枝を広げた樹が何本か固まっている一角に、まるでウイーンのグラーベンに立っているペスト記念柱のようなモニュメントが立っていた。ただ金色に輝く銘板といい、幾層もの人物像といい、宗教的なモニュメントらしい気配。


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 モニュメントの基壇部と上部二層の拡大。


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 モニュメントの基壇部と上部一層のみの拡大。

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 校舎か寄宿舎に似た建物のファサード。他は二階建てだが、ファサードのところだけ四階建てに見える。


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 ファサード上部には三っの窓が三角形になっていた。


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 ファサード入り口の庇に当たる部分の飾り。

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 ファサードの前から先ほどのモニュメントを、大きな樹々ごしにモニュメントのほうを振り返る。向うの並びの建物は列柱回廊のロマネスク様式のアーチが続いていた。

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 ファサードの入り口を入ると、小さな中庭。向うに見えている一階の窓は半地下の廊下になっていて、すべての窓はステンドグラスになっていた。

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 アーチ形の窓は上に大き目の丸窓の両側にやや小ぶりの丸窓、二段目は小さな三つの丸窓、下に長方形の窓という組み合わせで構成されている。

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半地下になっている中庭に面した廊下の窓の一つは丸窓で、部分に淡色が使われているだけで、花模様の他の部分は、白い線画のみでかえって清々しい感じを受けた。

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 修道院の付属教会の祭壇のゴシック様式の窓のステンドグラス。尖頭アーチ部分は暗い背景に浮き出したカラフルな花模様。その下の長方形の部分は明るい幾何学模様、祭壇の十字架が黒く浮き出していた。


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 ハイリゲンクロイツのシトー派修道院の付属教会の側壁のステンドグラス。上部のゴシック様式の上部は、正面祭壇のものと同じだか、下部の4列になった長方形窓は、4列の両サイドの模様はブルー、オレンジ、レッドの色鮮やかな花柄模様。中央の2列は聖者<多分?>の文様。


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 反対側の大きなゴシック尖頭アーチ窓は、上部はよく似た花柄の模様ながら、配色が少し異なっている。下の長方形4列の窓は図案化された花文様。


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 二つ上のステンドグラスの2列の聖者像の部分を拡大してみた。


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 同上の聖者像の両外の列の図案化された花文様。よく見えるように、もともと縦のものを横位置にした写真。見事なデザインと鮮やかな色彩がご覧いただけると思う。


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 いったん半地下の廊下から中庭に面したアーチ回廊に出た。アーチ回廊の天井はベージュ単色のものだが、石の配置が清々しく美しかった。


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 回廊から先ほど通ったところとは異なった別の中庭に出て、今通ってきた廊下のステンドグラスを見たところ。今まで見てきた色彩に溢れる図柄はデザインの構成する単なる線となっているが、真っ白な壁面とよくマッチし、たくさんの赤い花をつけたバラの木の背景に似合っていた。


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 ガイドさんに連れられて次に入った半地下の通路には、この修道院で亡くなった昔からの代々の院長たちの墓所になっているらしい。国により、宗派により、あるいは時代によって先人たちの埋葬の方法は様々、身廊の床の下に埋葬されたくさんの信者、観光客たちに踏まれ続けている墓所、トルコのコンヤで1924年まで旋回舞踊で有名なメプラーナ博物館では、入り口から入ったところ<モスク同様の広い場所>に、修道僧たちの棺がずらりと並べられたりしていた。お棺の頭のところに大きなターバンが飾られていたのが、珍しかった。キリスト教の大きな寺院で、祭壇の奥の回廊にたくさんの礼拝堂があり、そこには先輩の僧たちの墓所になっているものもあった。
 また祭壇の地下に墓所が作られているところも多かった。

 だが、ウイーンの森のハイリゲンクロイツ修道院では、ご覧のような死神・・・骸骨に守られ立派な黒塗りの棺に納められ、礼拝所を設けられた部屋が、幾つも<何部屋も>並んでいるところは始めての体験だった。
 骸骨は踊るような格好で、頭の上の大きな燭台を載せいてる。

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 上に布切れをまとった骸骨の拡大写真。


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 同じ部屋の写真。タテ位置での撮影。


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 次の部屋の燭台の骸骨を背景を壁面にして撮影。前の部屋の骸骨と、ポーズが少し異なっている。


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 隣の部屋の最奥の中庭に面した丸窓のステンドグラス。


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 2番目の部屋の交差穹窿。聖人像がフレスコ画で描かれていた。


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 修道院のもう一つの礼拝堂。天井は高くゴシック様式の交差穹窿は簡素。燦然と輝く祭壇の十字架が眩しい。


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 礼拝堂の隣の部屋。バロック様式あるいはロココ様式の天井装飾。いろいろ変形された枠内にフレスコ画が描かれ、左側には艶やかに塗られて光る木材で背もたれにも浮き彫りのある座席。何か会議にでも使われたものであろう。


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 先ほどの礼拝堂の右手の台の上には幾つかの小礼拝堂が見える。


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 さっきの礼拝堂の光り輝く黄金の十字架は「十字架上のキリスト」だった。


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 聖堂の年代もののパイプ・オルガン


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 聖職者の居並ぶ座席の高浮き彫りの装飾。

                〔この項おわり〕

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02.11.2006

メル友からの珍しい写真

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 私の友人から送られてきた添付フォトや、ニフテイのワールド・フォーラムで『路地裏の怪しい旅人』という会議室があり、海外旅行のヴェテラン揃い。一般の旅行者が滅多に訪れないところで撮った、珍しい写真を披露してくれます。その中から飛びっきり珍しい、あるいは面白いものを転載します。

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■ロワイヤル・ドゥ・リュックス

 フランス人の奥さんと可愛い子供二人とで、パリに住んでいる友人・・・ペンネーム「よーかいくん」が「路地裏のあやしい旅人」に投稿したもの。

 「この週末は、ノルマンディ地方にあるセーヌ川の河口の町、ル・アーブルに来ています。「ロワイヤル・ドゥ・リュックス」( Royal de Luxe ) という巨大な吊人形と大道芸を行うグループの催しが行われているからです。
 具体的には、ビルの3階建てくらいの高さの人工の象と少女の、可動型の人形が町の通りを練り歩くのです。象は長い鼻を自在に動かし、水を鼻から吹き出したりしますし、少女もキャンディをなめたり、昼寝したり、しゃがんで小便したりと、本当の人間のように動きます。
 10年ほど前からこういった巨大な人形を使った催しが行われるようになったようです。町の間を練り歩き、観客がその足元を埋めている風景は、なにかしら京都の祇園祭の山鉾巡行のような感じです。
 ル・アーブルに1泊した後、日曜の晩にパリに帰ります。」

 というメッセージです。

  続きをご覧になりたい方は、彼のホームページをどうぞ。
       http://homepage3.nifty.com/yokaikun/


    ************* これが第一弾 面白い話題と映像の入り次第掲載します。

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20.11.2006

2006年初冬京都府立植物園

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当日撮影した花々をコラージュでまとめてみました。


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最近、私たち夫婦ともども足腰の故障がだんだん酷くなって、毎年春秋の府立植物園に散歩に出かける習慣も、チト怪しくなってきています。しかし、今年も菊花展には是非ゆきたいと、・・・ついでに秋咲きのバラも見たいと11月13日〔月〕に出かけてきました。

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 京都府立植物園の南側正門を入ると、東に亭々と立つ樹林、西側は大温室、その間は広々としたスクエアになっています。門を入ったばかりのところに季節の花によるディスプレイが置かれていて、春はチューリップ、冬はパンジー、で今回は彩りも豊かに菊科の鉢花が三角形に置かれていました。


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 私たち夫婦は共に80歳を迎えるのを目前に、妻は膝関節痛、私は腰痛と平衡感覚に問題があり、めっきり外出が減ったものの、春秋二度の府立植物園散策は今まで欠かしたことはなかった。が今年は、10月の終わりごろから「いつ頃行こうか」と相談していた。
 ともかくバラ園と菊科展を見落としたくないと、天候の具合を見計りながら愚図愚図していた。やっと重い腰を上げたのが11月13日(月)。
 楽しみにしていた沈床花壇付近のバラ園は、とっくに盛りを過ぎ・・・どころではなく、あわれ大方は散ったあと。あちこちにポツリポツリと残りの花が健気に咲き残っているのみ。以下、2枚ほどしか撮れなかった。ひょろりと伸びた茎の先に小さな花一輪を、雲を通した太陽を背に撮ったのがこの一枚。


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 咲き残った大輪のバラ


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 咲き残った大輪のバラ


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 本来の目的だった京都府立植物園の第四十回菊花展も終幕まであと三日残すのみだったが、やはり遅すぎて時期を失したものだった。福助仕立て、大菊展示はことに花の傷みが目立ち、大輪の中にはべたっと枯れ落ちて見るも無残なものを散見した。
 細管や中菅のものは、まだ美しい姿を保っている物が多く、白・黄・赤の彩を交えやっと私を満足させてくれた。
 以下の二枚も管物の写真。

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 最初と同じ入り口に飾ってあった色彩鮮やかな小菊の鉢植えを並べたディスプレイ。


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 例年通り盆栽仕立ての菊も元気で、見ごたえがあった。太い枯れ木と小菊の釣り合いがよく、良い雰囲気を表現している。


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 大懸崖作りの展示も、いつも通りの迫力。大きいことはイイことだ。


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 先生に引率されてきた幼稚園の園児たちも、天気がいいので楽しそうにしていた。


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 菊花展のブースから遠ざかってゆく園児たち。


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大温室を出たところ、池のほとりにエンジェルス・トランペットの植え込みがあり、細長いラッパ状の花をつけていました。
  ナス科の低木で、ハイビスカス同様2~3mの高さになります。その名のとおりラッパ状の花を付けるのが最大の特徴。大型になるので植え付け場所に注意します。夏場の開花時期は水、肥料ともにたくさん必要とするので不足しないようにします。花色は白、黄色、桃色、橙色などがあります。冬越しは0℃以上必要。

〔以下、大温室にて〕06autum_13

 大温室の入り口の横にも、菊の小花の鉢が色とりどりに並べられていた。


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 熱帯花木の展示室に、小さいながら可憐な赤くて、細長い花が眼についた。余りに小さくて今までにも見ていたのだが、チラッと見て通り過ぎていたようだった。
 この花は、ブラジルの原産で、「ごまのはぐさ」科の「ハナチョウジ」という亜熱帯の植物。わが国では沖縄や南西諸島でみられる。


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 ハナチョウジの花


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 白いタンポポの綿毛のようなものは花だろうか。かなり大きくて花なれば繊細で美しい。

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 これは明らかに花のあとのタネだろうと思うが、とにかく大きい。


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 この植物の名を、Windows の Live Ssearch で〔画像〕、 「熱帯花木」 「熱帯・亜熱帯」で検索してみたがとうとう出てこなかった。鋭い線でやや広がり気味に伸びた茎に鋭い花穂を伸ばしている。その潔いほどのカタチが気に入った。


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 オンシジュウムは蘭科植物のうちで私が一番好きな花である。蘭の女王に相応しい豪奢なカトレアも、送りものに一番良く使われる胡蝶蘭も、それぞれに気品も高く美しいが、レディの踊りの別名もあるオンシジュウムは格別である。 
________________________________________
一般名:オンシジュウム(Oncidium)
学名:Oncidium Hybrids
科属名:ラン科オンシジュウム属
別名:ダンシング・レディ・オーキッド、バタフライオーキッド
原産地:中南米
草丈:20~150cm 花姿:総状花 ・円錐状 開花期:11~4月、また不定期に開花
花径:1.5~10cm 1花茎の花数:数個~数十個~数百個
花色:黄(代表色)・褐色・桃・白・橙 ・赤・茶、及びそれらの単色 ・複色・斑入り
説明:細長い茎にたたくさんの蝶のような形をした鮮黄色の花を咲かせるラン科植物です。別名 ダンシング・レディ・オーキッドと呼ばれるように、小花の一個一個が黄色いロングドレスに赤いベストを着けて、躍動感たっぷりに踊っているダンサー(フラダンサーやフラメンコダンサーのような)の姿に見えないこともありません。


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 京都府立植物園では、もうすぐ八十歳に手が届く私が現役時代に、京都府が彫刻展を催したことがあり、今でもそのままに園内の各所に彫像が置かれている。その作品の一つ。中央広場の片隅に置かれた彫像。


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 沈床花壇の西側にある彫像。この彫像が一番気に入っている。訪れる時間によって変わる太陽の位置、季節による太陽の高さ、私の彫像に向かって立つ位置・・・天気、雲の位置などなどで様々な姿を見せてくれるのも野外展示の特徴だと感じながら、いつも立ち寄りしばし眺めている。


★☆★☆★☆★  『2006年初冬京都府立植物園』おわり  ☆★☆★☆★

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22.03.2007

LOGO 2007年

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 みなさん、何年か前の一時期に私は文字と背景を選んでLOGOづくりに励んでいました。それも自己流・無手勝流で楽しんでいましたが、最近は写真のフォトレタッチ、加工にすっかりはまっていましたが、ボチボチ、別の方法でのLOGO作りをやってみることにしました。
 アフ゜リケーションにない効果を加えるための、プラグイン・フィルター ソフトを今まで写真の画像処理に使っていましたが、それを文字に使ってみれば面白いロゴが出来るのではないかと思いつき、試してみました。私の使っているプラグイン・ソフトは200種類ほどありますので先ず第一弾を。


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 これが加工前の「原画」です。これがどういう風に変わるか、御覧ください。プラグイン・フイルターには、背景と文字の色合いの変化のみのものと、変形を伴うものの二つに別れ、また、変化の量をコントロールするスライダーが表示され、その割合を決めることが出来るものとがあります。


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■■■ その1・・・は、ここまで。いつか次の「その2」をお目にかけます。 ■■■


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01.05.2007

あゝ、こんなことも あったっけ

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 12畳の私の部屋もいよいよガラクタで埋まった倉庫の様相を呈してきたので、暇々に整理していたところ、紙の色もくすんだ1通のハガキが出てきた。なんと、もう30年ほど前に地元の小さな旬刊紙が発行していた「京都新報」に依頼されて、写真エッセイを2年間近く掲載していたものが、無事終了したので、新聞社が費用全部を負担してくれて写真展を開催してくれた。おまけに5日間の会期中は二人の写真が受付に座ってくれたものだった。

 それまで何回かは自力で個展をひらいたり、いくつもの公募展、グループ展には定期的に出品していたものの、すべての手配をそつなくやってもらった経験はなかったので、こんな楽な個展は初めてのことだった。
 しかし月一回の連載は、写真と原稿を新聞社に渡して、ホッとしたのも、二日と経たぬ間にもう次の入稿を催促される急がしさったらない。つくづく毎日の連載をされたいる小説家はほんとに常人技ではないと思ったものである。

 そのときの案内ハガキ。

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03.05.2007

2007年春の植物園



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 ここ数十年、春秋の花の時期に夫婦で一日京都府立植物園の散策に出かけている。四年前に脳梗塞に見舞われた以降は、海外旅行には発作の再発が怖くて、あまり長旅には出られなかったが、春秋二回の植物園と浜名湖花博にはエイヤーッと出かけた。
 今年の春は、四月二十日に京都府立植物園にチューリップ花壇をメインに散歩か゜てら出かけてみた。

 今回は京都府立植物園の案内図をお眼にかけます。

■ 各画像をクリックすると大きな画像で御覧になれます。


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上の3枚の写真は、いつもの花壇と一味ちがって、同じ種類のユリ咲きチューリップを、色とりどりに混合して咲かせていて、あざやかな構成にしているところが見違えるほどに新鮮。

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洋風庭園の中央広場の大きな円形花壇を縁取る色々な色彩のチュリップの群落


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 植物園会館の前の洋風花壇は広場に大きな円形に植えられたチューップは、赤や黄色のマスで作られ、目の覚めるような色の対比が強い印象。

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 色とりどりのユリ咲きのチューリップ


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 洋風庭園の中央広場の大きな円形花壇を縁取るチュリップの群落


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  洋風庭園の西側には赤紫と白花の石楠花の木々がある。
 


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 石楠花 (シャクナ)


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黄色い色のチューリップ群


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 白花のチューリップの群の中に、1輪だけピンクの株が混じっていた。目立つなぁ・・・


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チューリップ花壇と植物園会館

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 植物園会館の正面玄関の飾ってあったルピナスの花。


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 植物園会館前の洋風化壇に接した東側に「バラ園」と亭々と聳えるヒマラヤシーダの大木があるが、バラの時節にはやや早すぎて、まだバラは蕾の陰さえ見当たらない。バラ園の東に噴水が勢い良く水を噴き上げている沈床花壇があるが、まだ見るべき花も育っていない。突き当たりに花壇を見下ろす小高い木立が壁のようにたっていた。

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  沈床花壇への入り口の両脇にヒマラヤシーダの大木が聳え、周りにはドイツ蔦が一ぱいに地を覆いつくしていた。新しく植えられた 「エキウム・ウィルドプレッティ」 と噴水が見える。  


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 バラ園から沈床花壇への入り口に 初物がお目見えした。カナリア諸島原産、ムラサキ科の 「エキウム・ウィルドプレッティ」 という未だみたこともない植物。2006年10月19日に61株を移植し、花期は5月中旬との事。まだロゼット葉だが中心の花茎が伸びてきた状態。花が楽しみで是非見てみたいものである。
 かなたに沈床花壇の噴水が見えている。


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 少し近寄って 「エキウム・ウィルドプレッティ」 を写した。 


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 緑の濃い常緑樹の間から、針葉樹の新芽がみずみずしい。

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 このあたりには花には早いが、芽吹きの新緑がうつくしい。


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 新緑


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 沈床花壇には、まだ花の数はすくないが、良く見ると紫色の小花も片隅で咲きかけている。


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 現植物園長の発案で、季節に応じた見所を 『きまぐれ園だより』という園長が園内案内図に手書きで花のみどころを書き込んだものをコピーして配っていました。沈床花壇からどちらに向かって歩こうか、と参考に 「きまぐれ園だより」 を取り出して、北門あたりに書き込みがあり 「超必見!ヨーロッパの世界 球根ガーデン」と推奨していたので、ぶらぶら北の方角に歩を進めることにしました。
 因みに園長さんは、月に3回程度、日時を指定して園長自身の案内で見所の案内をするというイベンも始められているとのこと。


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 沈床花壇からくすのき並木を通り越して大芝生地にはいる。

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 大芝生地とは、小学校の校庭なら二つや三つすっぽりはいるくらいの大きな広場で、子供連れの家族で賑わっている。衛生のため犬の連れ込みは現金で、球技も子供のケガを防ぐため、幼児のコ゜ムマリ以外は禁じられている。しかし、戸外で駆け回れない子供たちは、クルマにも路上での誘拐などの心配もなく、アスファルトやコンクリートと違った芝生の上を元気に駈けまわっていた。

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 横道にそれて花菖蒲園への小道に踏み込むと、周りには楓の樹が多く、赤い嫩葉の陰に目立たない花をいっぱんにつけていた。

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 みずみずしい赤い嫩葉の枝を差し伸べている楓

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 私は秋の広葉樹林のいろとりとどりの景色が好きだが、春先の雑木林も豊かな色彩に飾られているものだと新たに見直した。

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 ぶらぶらあちこちを眺めながら、やっと北端の北門前の広場に辿りついた。真ん中に大きな半円形の池があり、中央のノズルから勢いよく噴水が吹き上げている。池は平皿のようにすぐこ浅い。親が眼を離したときに幼児がよちよち入り込んでも足踝が浸る程度。噴水は高く吹き上げたり、1メートルほどに縮んだり、霧を吹き上げたりする。晴れた日であれば、霧に陽光がごく低い虹を描いたりする。

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 府立植物園では何十年か前に、公募による野外彫刻展を開催したことがある。その時、府が買い上げた彫刻が園内の各所に今も飾られているが、北門前の広場の西側には、御覧のような少女像が置かれていた。10台の若さにあふれた造形は私が一番好きなもの。

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 園長さんの「きまぐれ園だより」 案内の案内図に従って、今年にできた球根ガーデンの方向に歩いてゆくと、1本の樹の根元の周りにいろんな色の草花が植えられていました・

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 その近くに見たこともない花が咲いていました。府立植物園のガイドブックを開いて探すと、きんぽうげ科の「アクイレギア」という花でした。

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 日本各地の樹々、野草を集めた「なからぎの森」を周回かる道に入ってゆくと、道に沿って木々のあいだに、いろんな色、種類のチューリップ・・・赤、ビンク、黄色と共に紺青色のムスカリが長く帯状に並べていました。オランダのキュケンホフで生まれて初めて見た景色がアタマのに中に蘇ってきたほど感動しました。


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 樹々の間にムスカリの紺青色、黄色、赤の群落が広がる様は見事でした。


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 黄色の花のチューリップの群落、これほどたくさん眺められるのは圧巻です。


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 濃いピンクと黄色のチューリップの群れ。


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 ピンク一色のチューリップ。

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 周回路に沿って今年初めての球根植物に堪能しました。いつもは余り人影の多い場所ではありませんが、今日は高齢者のカメラマンたちがたくさんカメラを向けていました。


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 球根ガーデンから、温室に向かうことにしました。針葉樹林から日本各地の植物を集めた植物生態園を抜けて池の方角へ。このあたりは戦前にはヒマラヤ杉の森で、雲を衝くほどの大木がたくさん見られたところです。だが終戦後、米軍に占領軍の宿舎の建設地として接収され、たんさんのヒマラヤ杉が無残にも伐採され。昔の面影は失われています。
 茶室が建つ「なからぎの森」(「なからぎ」とはこの辺りの町名で感じでは「半木」とかきます) をぐるりと巡る池の畔の道に出てきます。

 下の4枚の写真は池の畔の新緑。この環濠のような池には蓮池もあります。

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池の一角には池に突き出した東屋(うずまや) があり、歩きつかれたときのいい休息場所。運がよければ、池の小魚を狙う翡翠 (かわせみ) も見られます。あずまやのある付近は青もみじがぐるりと池の周囲を取り囲んでいて、秋の紅葉鑑賞にはもってこいのところ。

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毎年、春秋二回は府立植物園に来ていますが、大抵は今回と同じようなコースで廻っています。なんとかの一つ覚えと本人は苦笑していますが、もう習慣として根付いているようです。大温室は、面積 4612.8平方メートル、鉄骨造りガラス張り、高さ14.8メートル、展示植物 4500種、約25,000本>
 門をはいると、左から時計回りに、水生・食虫植物ゾーン、熱帯ジャングル・ゾーン、熱帯有用植物室、熱帯高山植物室、砂漠。サバンナ植物室、森林生多肉津物室、アナナス室、ラン室と連なっています。中央には休憩室を兼ねた特別展示室があり、元のエントランス・ホールに戻ってきます。


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写真は木立性のベゴニアで、花房が垂れ下がっています。

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ベゴニアの仲間で一番華麗な花を咲かせる球根ベゴニアは、憧れの花ながら温度管理が難しく、本格的な温室でなければならない。私もあちこちの温室で眺めるだけの楽しみ。今年の春の温室では、例年になく素晴らしい花を眺められた。


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砂漠・サバンナ室では、毎回この部屋に入るたびに丸く大きなこのシャボテンに魅入られるのだが、何度名前を覚えても、いざというときにど忘れしていまう。年々壊れてゆく八十歳の脳に悲しくなる。こんど思い出したときに書き加えよう。


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熱帯羊歯は造形としても魅力いっぱい。

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熱帯有用植物室では、いつも良く見るバナナ以外に、カカオがたくさん実をつけていた。太い幹にジカにつけた実がたくさんぶら下がってるのは壮観。

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何時来てもこのヘリコニア・ロストラタは目立つ。


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温室の入り口の、ちょっとした広場に、リビングストーン・デージーが雛の節句の壇飾りのように並べなれていた。
あーしんど。歩きつかれた。

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2007年の京都府立植物園 おわり***************************************************

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05.04.2009

耄碌老人の繰り言日記 (44) ― 2009/04/01 15:41


Collagez_2

≪私が春秋の花の季節に京都府立植物園で撮り溜めた写真で作ったコラージュです≫

 皆さんコンニチワ。もうすぐ満八十二歳を迎える「ろまねすく」です。2月はもうすぐ春だと思っていたのに、3月には寒の戻りで震え上がっています。

【3月の日記】

3月9日(月) 

 あと1週間で平成20年度の所得税申告となったのに、社会保険庁から届いていた年間所得と保険料の通知がない!と慌てて京都西社会保険事務所に駆けつけ、再交付の申請を受けた。案外簡単に交付されたが、私と同じ通知の紛失者がかなり居ることに気がついた。

3月11日(水)

 もう後五日間しかない、というので西大路五条下がるところの京都府中小企業会館2階で開かれている確定申告の会場に行く。今年からはe-Taxと言う国税電子申告・納税システムも、自分の家からパソコンで申告書をそのまま送信することが出来るようになったが、毎年少しずつ細かい変更があるので、今年もここへ来てしまった。予め
大体の欄は下書き用紙に記入として於いたので。短時間で終わったが、なにしろ大きな講堂いっぱいに机が並べられ、少人数の税務署の所員が回っているので、確認を求めるのに時間がかかった。

3月13日(金)

 京都自由写壇の2009年度年会費の郵送とファインド・アイのアンケートの郵送のため常盤郵便局に出向く。

3月18日(水)

家からバスで四停留所嵐山方面にサガニックという二階にボーリング場があり、その一階が、道具・工具、ガーデニングなどの大きな店になっていました。数年前に前面立替るといったまま、店の再開を待ちわびていました。このほど、そこに「暮らし総合店ケーヨーD2」がオープンしたというチラシが入り、今日から開店とのことなので妻と二人で出かけて見ました。
 1階は花と緑の園芸用品、DIY売り場で防災防犯用品、電動工具、木材用品、庭造り、カー用品、バイク用品、健康器具、サイクル用品などの広い売り場。
 2階が、生活日用雑貨、調理・家庭用品、ペット用品、衣料品、インテリア・家具、生活家電、情報家電、文具・玩具の売り場。

と小さな百貨店のようも見えます。私たちは春咲きの花の苗を四鉢ばかり買って帰りました。

8月24日(火)

 近くの本屋さんで、DIGTAL TV GYIDEと文庫本を数冊買ってきました。
 午後はWBCの決勝戦をTVwで観戦。5対3で韓国に勝ち、優勝。

8月26日(木)

 少し暖かくなり天気も良かったので、府庁前までバスで行き、府知事をはじめ府庁の役人たちでも賑わうRADUNO理髪店で久しぶりに散髪。

8月27日(金) 

Internet Expror 8 が出たので、早速ダウンロードし色々の新しい機能を確かめた。

3月31日(火)

 新聞紙上に、戦後の引揚者に記念品が送られるとの議事が出たので、妻と二人で右京区役所に出掛けた。二人の住民票が必要とあったので、先に住民票の手続き。その時渡された書類を帰ってから良く見ると、大臣からの感謝状と銀杯・・・。もう仕事のことで大臣からの金杯も貰っているし、この歳になって今更銀杯を貰ってもなんだね・・・と申請しないことにした。

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3月の日記 終り
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